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カラスの葬列

作者: 伊藤純
掲載日:2026/04/07

 山のなかの細い道を、私は祖母と二人で歩いていた。


 ごつごつした木の根が地面のいたるところから顔を出し、気を抜けばすぐに足を取られて転びそうなる道は、そこをはじめて通る私にとって危険極まりないものだった。ひ弱な足にはきつい勾配を、私は祖母に手を引かれて進んでいく。

 私よりもはるかに歳を重ねているのに、私よりもはるかにしっかりとした足取りの祖母に置いていかれないように、私は懸命に足を動かす。だが平地では風のように駆けられる子どもの足も、太く硬い木の根がそこらじゅうから露出しているでこぼこの山道では、杖代わりの細い枝よりも役に立たない。私は三歩行けばつまづいて、その度に祖母に引かれて姿勢を立て直すことを繰り返していた。


 村を出る時に私たちを照らしてくれていた太陽は、山の奥へと進むにつれ鬱蒼とした木々に覆われてしまった。もうどれほど歩いたかわからない今はその姿を完全に隠し、周囲は薄闇に包まれていた。いったい今は昼なのか夕刻なのか、山での時を知る術のない私には皆目見当もつかない。だが頭上を仰ぎ見れば青い色が広がっていて、まだ空のどこかには太陽が浮かんでいることが察せられた。


「ばあさま、どこまで行くの」

「もう少し行ったところだ。山歩きに慣れていないおまえには厳しい道だろうがじきに楽になる」


 物心がついた頃から山に入ることを禁止されていた私にとって、これがはじめての入山だった。


 村では七歳未満の幼子と私だけが山に足を踏み入れることを禁止されていた。そのため、私はずっと村から一歩も外に出たことがなかった。太陽が山の向こうから顔を出し、そしてまた山並みの向こう側にその姿を隠すまで、私は村のなかで大人に言いつけられた仕事をこなしていた。

 村にいる私以外の子どもは、七歳の誕生日を迎えたら入山が許されるようになるというのに、私はいつまで経っても留守番だった。そのせいか、私より年下の子どもたちが大人に連れられ山に分け入り、背負った籠いっぱいに野草や木の実を満たして帰ってくるたびに、私はどこか置いてきぼりにされたような寂しさを覚えていた。


 なぜ私はだめなのか。何度も大人たちに聞いてみた。七歳になるまでは神の子だからだめなのはわかる。だが私はその時期を無事に生き延びた。大きな怪我も病気もなく、同じ時期に生まれた子どものなかでもいちばん健康に育った。それなのに大人たちは、私に納得のいく答えをくれなかった。穏やかに微笑み、山は不浄を嫌うものだからと繰り返すだけだった。

 では私が不浄の存在なのかと問えば、必ず否定の言葉が返ってきた。事実、七歳になったその日から私は毎日清潔な衣に身を包み、ほかの子どもたちが水浴びで済ませる日でも、私だけは温かい湯で満たされた木桶に体を沈めることを許されるようになった。月に一度はなめらかな手触りの薄衣を纏い、母親たちよりもひとまわりほど若い姉さんたちに囲まれ踊りの稽古をした。

 質素な暮らしを送る村の生活にはそぐわない、見ただけで上質とわかるその衣は、私が動くたびに蝋燭の灯りをゆらりとはね返し、闇をほの明く照らした。特別な衣装を纏った私を村の女たちは褒めそやし、この日のために念入りに手入れされた肌や髪を、神器のように扱った。


 そのように不浄とはかけ離れた生活をしていた私が唯一許されなかったことが、山へ入ることだった。


「もう少しってどれぐらい」

「おまえの足ならあと半刻ほどだろう」


 ここからさらに半刻も歩くのかと、私は半ば絶望した。健康体だといっても、村のなかだけで過ごしてきたこの体に荒れた山道は堪えるのだ。


 今日、私は十四歳になった。豊かではない暮らしのなかでは、ひとつ歳を重ねることにそれほどの意味はない。だが村のなかしか知らない私にとって、年齢が上がるごとに少しずつ世界を広げていく友人たちは眩しくて、生きてきた日々の数字が増えることは何よりの喜びだった。たとえ私の世界が広がらなくても。だから朝餉の席で祖母から山に入ると告げられた時は、十四年の人生でもっとも言祝ぎに満ちた瞬間だった。


 そして今わたしは山にいる。


 仰ぎ見るだけだった山のなかは、想像していたものとは違い暗く湿っていた。草鞋の足は汚れ、爪の間や指の股にこびいりついた泥が気持ち悪かった。すりむいた膝や手のひらの傷はじくじくと痛み、祖母と一緒にいるのに心細さに押しつぶされそうだった。あれだけ憧れた山なのに、私の心は沈んでいく一方だった。


「ばあさま、ここは暗いよ」

「太陽が見えないからな。山は日が暮れるのが早いんだ」

「歩いているうちに真っ暗になってしまうよ」

「大丈夫だ。暗くなるまえに着く」


 着いたとしても帰りは暗闇のなかを歩かなければならないではないか。文句を言おうとしたが私の口は閉じられたままだった。まだ歩き続けなければならないことを告げられ、気力が失われてしまったのだ。かろうじて足だけ動かしている私を見かねたのか、祖母が「疲れたか」と聞いてきた。私は首を縦に振ることで肯定の意思を伝えた。


「気付け薬をもってきてある。もっと行ったところで渡そうかと思ったが、ここで飲みなさい」

「帰りたいよ」

「それはならない」


 そう言われてしまえば私は従うしかない。父親がいない私にとって、祖母が父であり祖父の代わりだから。家長として私たち家族を守ってくれる祖母の言うことは絶対だった。


 祖母の手のひらに出された黒い丸薬を受け取り、竹筒の水で流し込んだ。ひんやりとした水が喉を通って胃に落ちていく。ぼんやりとしていた四肢の感覚が、冷たい水で輪郭を取り戻したように感じたが、それもすぐに内臓の温度に同化した水のように曖昧になった。


「村に帰りたい」


 祖母は何も言わなかった。


 私の生まれた村は、四方を山に囲まれた谷底にあった。人の目から隠れるようにひっそりと家々が集まって築かれた小さな集落は、山の裾野に広がる大きな街からはかなり遠く、ほとんど隔離されているような閉鎖的な空気が漂っていた。

 男手がないせいで、農作業も力仕事もすべて女が仕切っていて、母親は若い頃に街に出ていたらしく、詳しくは教えてもらえないが、身重の体で出戻って故郷であるこの村で私を産んだらしい。

 父親がどこにいるのかは知らない。街に残って私たち家族を養うために働いてくれているのだろうか。それとも私たち以外の誰かと家族を作ったのだろうか。ほかの家も私の家族と似たり寄ったりの境遇で、どこの家にも父親はいなかった。だが私たちにはそれがあたりまえで、大人の男がいる生活というものが想像できなかった。


 村では諍いごとは起こらない。大人たちはいつも笑顔でおおらかで、そんな大人たちに育てられた子どもたちは、天に向けて伸びる一本の樹木のように真っ直ぐ健やかに育っていった。七歳を迎えても山に入ることが許されない私を除け者にすることもなく、時に喧嘩をしながら家族のように仲良く過ごしていた。

 時が止まったような、微睡のなかで知らずに朽ちていくような閉ざされた世界で、私はほかの村人がそうするように、家族や近所の人々と協力しあいながら生きてきた。


 村では山に入ることが大人になるための最初の儀式だった。子どもという大義名分のもと、大人たちに甘やかされ、構われ、慈しまれていた存在からひとつ段を上がり、大人としての振る舞いを学ぶ時期に入るのだ。私がいちばん仲良くしていた二つ年上のキヨも、七歳の誕生日を迎えたその日から、彼女の母親に連れられて山に入るようになった。


 はじめての収穫を終え下山した彼女の顔を、私は今でも覚えている。大きな籠を背負い、顔や着物を泥で汚した彼女の顔からは乳臭さが消えていた。キヨは大人になったのだ。あの時の私は、彼女が私の知らない遠い場所へ行ってしまったように感じてほのかな苛立ちを覚えた。だがそれもほんの一瞬の出来事で、大人たちのうしろに隠れるようにして立っていた私の姿を見つけるや否や駆け寄ってきたキヨの幸せそうな笑顔を見た瞬間に、胸のうちに抱えた黒い雲は霧散した。

 私はキヨが好きだった。日焼けした肌からのぞく白い歯が美しいと思ったし、畑仕事で荒れた手もふわふわとやわらかくて、握ると幸福に満たされるようだった。キヨは私のいちばんの友達で、幼いながらにずっと一緒にいようと誓いあうほどだった。


「キヨもここを歩いたことがあるの」


 私は祖母に尋ねた。キヨが通ったことのある道なら私だって先に進める。そう思ったのだ。


「キヨはここには来ない」

「どうして?」

「キヨはおまえとは違うから」


 見上げた祖母の顔を薄闇に包まれていて、その表情は見えなかった。


「何が違うの」

「何もかもだ」


 私は急に怖くなった。キヨが歩いたことのない道を歩いていることが。だんだんと暗くなっていく山の気配が。そして、私の手を引く祖母が。


 祖母はいつでも優しかった。一家の長という立場のせいか人を従える厳しさはあったが、私は祖母に叩かれたことも理不尽に叱られたこともない。野良仕事で硬くなった祖母の乾いた手が私は好きだった。だが今私の一歩前を歩く祖母はどこか張り詰めた気配を漂わせていた。


 もう一度帰ろうと祖母に言おうとしたそのとき、頭上から空を切り裂くようなけたたましい鳥の鳴き声がした。私は祖母にしがみつき、そして条件反射で顔を上に向けた。木々に切り取られた空を一羽の黒い鳥が横切り、そのすぐ後ろから同じ黒い鳥が何羽も一斉に、最初の一羽を追いかけるように飛んでいった。

 黒い鳥たちは、ぽっかり空いた木々の切れ間を舞台にして、円を描きながら追いかけっこをしているように見えた。悲痛な声はきっと先頭の一羽だろう。複数に追いかけられ、攻撃され、必死に逃げているように見えた。

 頭上で繰り広げられる光景を、私は唖然としたまま見上げていた。首が痛くなっても、姿を消してはまた戻ってくる鳥たちの姿を見守り続けた。


「カラスの葬列だ」


 ふと横から声がして、私は自分が祖母と二人きりで山にいることを思い出した。

 薄闇の中で見上げた祖母の顔は、灰色に塗りつぶされたように表情が見えなかった。私は怖くなって、祖母の手を握る自分の手に力を込めた。


「葬列ってなに?」

「カラスは縄張り意識が強いから、群れの中にいる異分子を排除しようとする。自分たちと違うものを追い出すんだ」

「でも、みんな同じカラスだよ」

「見た目が同じでも、誰が仲間で誰が違うのかカラスは賢い生き物だからわかるんだよ」

「みんなと違うカラスは、どうなっちゃうの」

「葬られる。言ったろう、あれはカラスの葬列だと」


 遠くでカラスの絶叫がした。


 葬られる。はじめて聞いた難しい言葉を私は口のなかで繰り返した。たった一羽、同じ見た目の同じ生き物から追いかけられ傷つけられるカラスが哀れで、そしてたった一羽を選んで攻撃するカラスが恐ろしかった。


 黙りこくった私の手を引いて、祖母は再び歩き出した。私はあの哀れなカラスの姿を思い出していた。姿形は同じなのに、なぜあの一羽だけ追い出されるのだろう。いったい他のカラスと何が違うのだろう。

 気づけば私は自分自身をあのカラスに重ねていた。七歳を迎えても山に入れなかった自分は果たして異形なのだろうか。手も足も顔もみんなと同じ数で同じ形をしているが、私は今日まで山に入れなかった。他の子がしないことを私だけはしていた。私はいったい何者なのだろう。


 足がもたつく。祖母に引き上げられ、私はすんでのところで転ばずに済んだ。疲労感が強くなっていた。ここで立ち止まってしまったら、ずぶずぶと地面に沈み込んでしまいそうな気がして、私はのろのろと足を動かした。


 私は無性にキヨに会いたくなった。十六歳になり、姉さんたちに混ざり踊りの稽古に参加するようになったキヨのはにかんだ笑顔を思い出す。彼女のなめらかな肌は私が纏う薄衣よりもやわらかく繊細で、ふれればそこから体温が混ざりあっていく感覚が私は好きだった。


「帰りたい。キヨに会いたい」

「ならぬ」

「どうして」

「おまえは大人になったんだ。だからキヨとは会えない」

「キヨだって大人だよ」


 だれもが私たちは大人になったと認めていた。もう子どもではないと、大人たちはおりにふれて私やキヨに言って聞かせてきたのだ。だから、私だけが大人のように言う祖母の発言には納得がいかなかった。

 七歳から大人への道を歩みはじめたキヨに遅れながらも、私にも大人としての役目が増えた。私が十三歳になってから、それまでは月に一回だった姉さまたちとの踊りの稽古が、二週に一回、週に一回と増えていった。今では三日に一回の頻度で私は姉さまたちの待つ小屋を訪れるようになっていた。すっかり体が大きくなった私に合わせ内容も本格的なものに変わり、それまでの輪の中心で姉さまたちと手を繋ぎ呼吸を合わせるだけの戯れから、髪を振り乱しながら舞う姉さまたちのうねる体を下から支える役割を担うようになった。


 私はもう一度「キヨも大人だよ」と祖母に訴えた。だが祖母は返事をしてくれなかった。その代わりに、ひどく優しい声で「もうすぐ着くぞ」と私に言った。

 無知な私は何もわからなかった。ただもうこれからは、これまでのようにキヨと会うことは叶わなくなることだけはわかった。


「キヨはどこかに行ってしまうの」

「いいや。キヨはずっと村にいる」

「それなら——」


 私がどこかに移るのだろうか。生まれ育った村を離れたら私はどうやって生きていけばいいのだろう。私の不安げな眼差しに気づいたのだろうか、祖母はほどけそうになっていた私の手を力強く握った。


 山の中は相変わらず不気味なほど静かで、先ほどまで嫌というほど聞こえていたカラスの鳴き声も消え失せ、もうどこにもその気配を残していなかった。

 いつの間にか空には夜の色が混ざりはじめ、木々に囲まれた山道は明かりがないと心許ないほどに暗くなっていた。そんななかを私は祖母と歩く。視界が揺れるのは疲れが溜まっているからだろう。ここまでたった一度の休憩をしただけでずっと登り続けてきたのだ。私の心も体も限界を訴えていた。気を抜けば脱力しそうになる体をなんとか奮い立たせたところで、祖母が立ち止まった。


「着いた」

「ここ……?」


 ひらけた場所には何もなく、数十人が集まればいっぱいになってしまうような狭い広場のような空間があるだけだった。

 私の手を握る祖母の力が強くなった。痛みに思わず顔を顰めたが、祖母は私の様子など気にするそぶりも見せず広場を突っ切っていく。私は何が起こっているのか、これから何が起こるのかもわからないまま、ただ朦朧とする意識を引きずりながら祖母のあとを追いかけた。


「ここに立ちなさい」


 祖母が示した場所は崖の突端だった。おそるおそる下に目を向ければ、真っ黒な奈落が口をあけていた。足下からぞわぞわと不快な何かが這い上がってくる。全身に鳥肌が立ち、私の膝は笑っていた。今すぐうしろに下がりたい。それなのに体が動かない。頭がぼーっとする。心臓だけが激しく動いていた。


 どこからかカラスの鳴き声がする。きっとあのカラスだ。まだかつての仲間に追いかけられ攻撃されているのだろうか。


 祖母のあたたかい手が背中にふれた。


「ば……さま」


 助けて。ここはこわい。そう言おうとしたのに私の口は縫われてしまったように開かなかった。

 祖母が私の背中を押した。力強く、迷いなく。


 一歩踏み出した先に地面はなかった。

 私は落ちていく。

 祖母の言葉がよみがえる。


 ——カラスは縄張り意識が強いから、群れの中にいる異分子を排除しようとする。自分たちと違うものを追い出すんだ。


 ああそうなのか。私はやっと理解した。

 私はあのカラスだった。女だけの村でたったひとりの異形。同じ人の形をしていても、骨ばった体、ふくらんだ喉仏、母や姉さまそしてキヨにはあるのに私にはない胸のふくらみ、私にしかないふくらみ。何もかもが違っていた。あの村において私は異分子だったのだ。


 季節が進むごとにふくらんでいったキヨの腹を思い出す。キヨは幸せそうにはにかんでいた。姉さまたちも同じように喜びに満ちた笑みを浮かべていた。


 父も、祖父も、きっとこの谷の底に眠っている。カラスの葬列によって追い出された異形のものたちが私を待っている。

 闇を引き裂くような鋭い声が聞こえた。

 そして私は暗闇に落ちていった。

読んでくださりありがとうございました。

ひんやりじっとりしていただけたら幸いです。

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