性行為によるストレス発散療法
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質なリズムを刻んでいる。
その音が、私の焦燥感を煽るメトロノームみたいだ。
午後一時。約束の時間はとうに過ぎている。
「……遅い」
リビングのソファに深く沈み込みながら、私は天井のシミを睨みつけた。
エアコンの設定温度は24度。快適なはずの室温なのに、私の肌は微かに汗ばんでいる。
これは気温のせいじゃない。体内を駆け巡る「飢餓感」のせいだ。
彼――蓮に会えなくなってから、今日で二十三日目。
仕事が忙しいのは知っている。プロジェクトのリーダーを任されたとかで、毎日終電帰りなのも知っている。
頭では理解しているけれど、細胞レベルでは納得していない。
私の体は、彼という成分が枯渇して、干からびたスポンジみたいになっている。
立ち上がり、全身鏡の前に立つ。
今日の私は、完璧な「罠」だ。
とろみのある素材の白ブラウスは、少し前屈みになれば胸元のラインが危うくなる計算ずくのデザイン。
膝丈のタイトスカートは、あえてスリットが深めのものを選んだ。
そして、その下。
見えないところには、彼が一番好きなボルドー色のランジェリーを仕込んである。
手首の内側に鼻を近づける。
バニラとムスクが混ざり合った、甘くて重い香水。
彼を絡め取る準備は万端だ。あとは獲物がかかるのを待つだけ。
スマホが震えた。
短い振動音が、静まり返った部屋に爆音のように響く。
『着いた』
たった三文字のメッセージ。
それだけで、血管の中を流れる血が、一瞬でガソリンに入れ替わったみたいに熱くなる。
心臓が肋骨を蹴り上げる。ドクン、ドクン、と痛いほどの鼓動。
インターホンが鳴るのを待つ?
そんな余裕、あるわけがない。
私はスリッパを脱ぎ捨て、裸足でフローリングを蹴った。
ペタペタと足裏が床に張り付く感触すら、今は心地いいリズムだ。
玄関のドアノブに手をかける。
金属の冷たさが掌に伝わる。
深呼吸。いや、息なんて整えなくていい。乱れたままでいい。
震える指でサムターンを回す。
ガチャリ。
重厚な鉄の扉が、ゆっくりと外の世界へと開かれた。
ドアが開いた瞬間、冬の乾いた風と一緒に、懐かしい匂いが雪崩れ込んできた。
タバコと、微かなミントガム、そして彼自身の体温が混じり合った、私の精神安定剤。
「……おつかれ」
目の前に、蓮がいる。
無造作にセットされた黒髪。疲労で少し窪んだ目元。無精髭がうっすらと浮いた顎。
その気だるげな立ち姿を見ただけで、膝の力が抜けそうになる。
「ん」
彼は言葉少なに靴を脱ぐと、ボストンバッグを床に放り投げた。
ドサリ、という重い音。
それが合図だった。
「蓮……っ」
彼の名前を呼ぶと同時に、太い腕が伸びてくる。
引き寄せられる勢いが強すぎて、鼻先が彼の硬い胸板にぶつかった。
痛い。でも、その痛みが「実在」の証明だ。
「……充電させろ」
耳元で低く囁かれた瞬間、視界が塞がれる。
キスじゃない。あれは捕食だ。
唇が触れ合う情緒なんて欠片もない。乾いた唇が押し付けられ、無理やり抉じ開けられる。
入ってきた舌が、口内を荒らし回る。
酸素が奪われる。
彼の唾液の味。
「んぅ……っ、ふ、ぁ……!」
玄関の壁に背中が押し付けられた。
逃げ場はない。逃げるつもりもないけれど。
彼の右手が、ブラウスの裾から滑り込んでくる。
外気で冷え切った掌が、熱を持った私の脇腹に触れる。
その温度差に、背筋がゾクリと跳ねた。ビクつく私の反応を楽しむように、指先が這い上がってくる。
「……ここでやる気?」
息継ぎの瞬間に挑発すると、蓮は肉食獣の目で私を見下ろした。
「嫌か?」
「……ベッドがいい」
「贅沢言うな」
口ではそう言いながらも、彼は私を軽々と抱き上げた。
視界が回転する。
私は彼の首に腕を回し、しがみつく。
彼の首筋から漂う匂いを胸いっぱいに吸い込むと、脳髄が痺れるような酩酊感に襲われた。
アルコールなんて目じゃない。彼という存在そのものが、私にとっての劇薬なのだ。
リビングを素通りし、寝室へ。
足でドアを蹴り開ける乱暴な仕草にすら、胸が高鳴る。
私たちはそのまま、ダブルベッドの海へと沈んでいった。
シーツの上に放り出されると同時に、彼が覆いかぶさってくる。
重い。
成人男性の全体重がのしかかる圧迫感。
肺が潰されそうだけれど、今はその苦しささえ愛おしい。
彼が確かにここにいるという、圧倒的な質量の証明だから。
「……桃奈」
名前を呼ばれただけなのに、性感帯を撫でられたみたいに体が震える。
彼の指が、私のブラウスのボタンにかかる。
一つ、二つ。
プチ、プチ、と外れる音が、理性の留め金が外れる音と重なる。
面倒くさい。いっそ引きちぎってしまえばいいのに。
素肌が露わになる。
部屋の空気は暖かいはずなのに、肌が粟立つ。
彼がその肌に、焼印を押すように熱いキスを落としていく。
鎖骨、胸の谷間、そしてもっと下へ。
「あっ……、そこ、だめ……」
「だめじゃないだろ」
私の嘘なんてお見通しだ。
彼の手が、スカートのジッパーを下ろす。
衣擦れの音がやけに大きく響く。
露わになった内腿に、彼の手が這う。
ざらりとした指の感触。マメのある硬い掌。
それが、私の最も柔らかい場所を捉える。
「……濡れすぎ」
「っ、うるさい……!」
意地悪な指摘に、私は顔を背けて枕に顔を埋めた。
だって仕方ない。三週間だ。
体が勝手に準備を完了させてしまっている。
「正直な体」
彼が喉の奥で笑う振動が、肌を通して伝わってくる。
そして、決定的な瞬間が訪れた。
彼の一部が、私の内側へと侵入してくる。
熱い楔。
張り詰めていた粘膜が、ゆっくりと押し広げられる感覚。
「あ、ぁ……っ! 蓮、おっきい……!」
「力抜け。……入らねえ」
「むり、だって……っ」
言葉にならない。
満たされる、という感覚を超えている。
私の存在の器ぎりぎりまで、彼が注ぎ込まれていく。
内臓の位置がずれるような異物感と、脳が焼き切れるような快楽が同時に襲ってくる。
そこからは、嵐の中を漂う小舟のようだった。
寄せては返す波。
彼が動くたびに、ベッドのスプリングが軋み、水っぽい音が部屋に充満する。
恥ずかしい音。
でも、その音が私たちの生存本能をさらに煽る。
視界が揺れる。
涙で滲んだ視界の端で、彼が汗を滴らせながら私を見下ろしているのが見えた。
その瞳は、普段のクールな彼とは別人のようにギラついている。
私を食い尽くそうとする獣の目。
(ああ、食べられている)
物理的な意味じゃなく、魂ごと咀嚼されている。
腰の奥がズクリと疼き、目の前で火花が散った。
「桃奈、いくぞ」
「まっ、て、わたしも、いく、いくっ……!」
タイミングなんて合わせる余裕はない。
ただ、互いの絶頂がぶつかり合い、混ざり合い、溶け合う。
白濁した思考の中で、私は彼にしがみつき、その背中に爪を立てた。
傷跡が残るくらい強く。
私がここにいた証を、彼の体に刻み込むように。
意識が浮上した時、体は汗でぐっしょりと濡れていた。
冬だというのに、サウナに入った後のようだ。
隣で蓮が荒い息をついている。
「……汗、すごい」
私が呟くと、彼は前髪をかき上げながら起き上がった。
背中には、私がつけた爪痕が赤く残っている。それを見て、少しだけ征服感を覚える。
「風呂、入るか」
「うん。……一緒?」
「当然だろ」
彼は私の腕を引き、強引に立たせた。
足元がふらつく。
生まれたての子鹿みたいに震える足を笑いもせず、彼は私の腰を支えてバスルームへとエスコートする。
浴室のドアを開けると、冷たいタイルの床が足裏にひやりとした。
シャワーの蛇口を捻る。
温かいお湯が勢いよく吹き出し、瞬く間に浴室内に湯気が充満する。
鏡が白く曇り、私たちの姿を曖昧にぼかす。
「流すぞ」
彼がシャワーヘッドを持ち、私の背中にお湯をかける。
温かい水流が、汗と愛液で汚れた肌を洗い流していく。
気持ちいい。
強張っていた筋肉が、お湯の熱でゆっくりと解れていく。
「……背中、洗ってあげる」
私がスポンジにボディーソープをつけると、彼は素直に背中を向けた。
広い背中。筋肉の鎧。
泡だらけのスポンジで、その硬い背中を滑らせる。
肩甲骨のくぼみ、背骨のライン。
洗っているはずなのに、指先が彼の肌の感触を確かめるように動いてしまう。
「……くすぐったい」
彼が振り返り、私の手首を掴んだ。
その瞳の色が、また変わり始めている。
さっきベッドで見た、あの色だ。
「え、ちょっと、蓮……まだ洗って……」
「もういい」
彼は私を壁際に追い詰めると、濡れたままの体で押し付けてきた。
お湯と泡で滑る肌同士が密着する。
ニュルリ、という独特の感触。
ベッドの上とは違う、湿度100%の摩擦。
「滑る……っ」
「だからいいんだろ」
彼は私を抱き上げると、そのまま自分の腰に乗せた。
足がつかない不安定さ。
支えは彼の腕と、結合している一点だけ。
「っ、はぁ……! 深い、蓮、深いってば……!」
重力に従って、彼が最奥まで沈み込んでくる。
ベッドよりも深く、逃げ場がない。
浴室に反響する水音と、私たちの湿った声。
シャワーのお湯が頭から降り注ぎ、視界を遮る。
息ができない。
口を開けると、お湯と彼のキスが同時に飛び込んでくる。
「桃奈、こっち見ろ」
濡れた髪をかき上げられ、強制的に視線を合わせさせられる。
曇った鏡の向こう、湯気の中で絡み合う二つの影。
それはまるで、神話に出てくる蛇が交尾しているみたいに淫らで、神々しかった。
お湯の熱さと、身体の熱さ。
どちらが熱いのかもうわからない。
ただ、溶けてしまいそうな浮遊感だけが、そこにあった。
二度目の嵐が過ぎ去った後、私たちはバスタオルに包まってベッドに戻った。
髪を乾かす気力すらない。
枕元に放り出したスマホを見ると、時刻はもう夕方の五時を回ろうとしている。
「……よく寝たし、よく動いた」
蓮が大きなあくびをして、私を引き寄せる。
彼の体温が、湯冷めしそうな体に心地いい。
濡れた髪が彼の胸を濡らしてしまうけれど、彼は気にした様子もなく、私の頭に顎を乗せた。
「……なんか、夢みたい」
「何が?」
「蓮がここにいること。またすぐいなくなっちゃうんでしょ」
弱音がポロリとこぼれた。
言った後で後悔する。重い女だと思われたくないのに。
でも、彼は怒らなかった。
代わりに、私の腰を抱く腕に力を込めた。
「……来月にはプロジェクト終わる。そしたら、有給とって温泉でも行くか」
「え、ほんと?」
「ああ。予約しとく」
嘘でもいい。その言葉だけで、あと一ヶ月は戦える気がした。
安心感がしかめっ面をして、強烈な睡魔を連れてくる。
瞼が重い。
彼の心臓の音をBGMに、私は泥のような眠りへと落ちていった。
6.深夜の牛丼、生存本能の味
「……腹減った」
その声で目が覚めた時は、窓の外は完全に夜の闇に包まれていた。
時計を見ると、夜の九時半。
昼前に彼が来てから、私たちは一歩も家から出ていないどころか、まともな食事すらしていない。
「……死ぬ。なんか食べないと死ぬ」
私が呻くと、蓮も同意するように唸った。
性欲の次は食欲だ。人間の三大欲求なんて、所詮こんなものだ。単純で、正直で、残酷なくらい正確。
着替えて外に出ると、冬の夜風が火照った頬を刺した。
さっきまで裸で絡み合っていたのが嘘みたいに、私たちは厚手のコートを着込んで、普通のカップルとして歩いている。
目指すは駅前の『スタミナ牛丼 太郎丸』。
おしゃれなディナーなんて気分じゃない。
今の私たちに必要なのは、失ったカロリーを即座に補填できる、暴力的なまでの脂と糖質だ。
店内は空いていた。
カウンター席に並んで座る。
私は「ネギ玉牛丼の並」、彼は「特盛の肉増しセット」。
ドン、と目の前に置かれた丼。
湯気と共に立ち上る醤油と出汁の香りが、胃壁を直接刺激する。
口の中に唾液が溢れる。
「いただきます」
合掌もそこそこに、割り箸を割る。
肉を卵に絡めて、白米と一緒に口へ放り込む。
……美味い。
脳髄に電流が走るような美味さだ。
甘辛いタレの味、牛肉の脂の甘み、ネギの辛味。
それらが渾然一体となって、空っぽの体に染み渡っていく。
「……っはー、生き返る」
隣で蓮が、丼を持ち上げて豪快にかき込んでいる。
喉仏が動く様が、妙に生々しい。
さっき私の肌を愛撫していたその手で、今は箸を握り、肉を貪っている。
そのギャップが、たまらなく愛おしい。
「……なに見てんだよ。食わねーなら貰うぞ」
「あげるわけないじゃん。私の肉」
私は慌てて丼を抱え込んだ。
彼がニヤリと笑う。
テーブルの下、誰にも見えない位置で、彼の膝が私の膝にコツンと当たった。
それは、「帰ったらまた」という無言の合図。
丼の底に残った最後の一粒までかき込む。
満腹感が、幸福感と混ざり合う。
店を出て、再び夜の街へ。
冷たい風も、今は心地いい。
繋いだ手から伝わる熱が、今夜はまだ終わらないことを教えてくれていた。




