第1話 断罪される予定の私に、今日もおやつが届く
断罪まで、あと三十六日。
その事実を思い出すたび、胃がきゅっと縮む。
公爵令嬢としての優雅さ? 今日は家出した。たぶん二度と帰ってこない。
私は机に広げた紙束――「破滅回避メモ」を睨みつけた。
【破滅回避計画(暫定)】
・王子と目を合わせない
・ヒロインに絡まない
・陰口を言わない(最重要)
・廊下で転ばない(イベント発生率高)
・階段付近を歩かない(同上)
・お茶会に参加しない(噂が増える)
・転ばない(転ぶな)
・転 ぶ な
最後、もはや呪文だ。
でもこの学園、何かが「起きる」前提で世界が回っている気がする。気がするじゃない、回ってる。
私は前世の記憶を持っている。
そしてここは、乙女ゲームっぽい世界の中――らしい。
私は悪役令嬢、公爵令嬢リリア・エヴァンス。
幸い、まだ大きな失点はしていない。
ヒロインに意地悪なんてしてないし、王子にも噛みついてない。
むしろ、笑顔で距離を取っている。すごい。褒めてほしい。胃が。
なのに。
コン、コン。
「リリア様……失礼します……」
扉の向こうから覗いたのは、取り巻き――だったはずの同級生、マリアンヌ。
彼女はなぜか、終末を告げる使者みたいな顔をしている。
そして両手には、上品な木箱。
嫌な予感が喉の奥で鳴った。
「どうしたの、マリアンヌ。まさか……階段が増えた?」
「増えません……! 学園は迷宮じゃありません……!」
ならよかった。よくない。
マリアンヌは木箱を机の上に置き、視線を逸らしながら言う。
「……差し入れです」
「誰から」
「第一王子殿下から……」
私は静かに、椅子の背もたれに頭を預けた。
天井が遠い。人生も遠い。
第一王子レオン・ヴァルディス。
私の婚約者。未来の断罪執行者。
そして最近、私に向かって「毎日おやつを差し入れてくる男」。
何がどうしてそうなるの。
私は木箱を見下ろした。
飴色の木肌に、薄い金の箔押し。深い青のリボン。丁寧な結び目。
品が良すぎて逆に怖い。罠の匂いが上品。
「今日は……何」
「焼き菓子、だそうです。殿下が“午後の分”と……」
「午後の分……?」
午後の分って何。
午前の分もあるの? 私は時間割? 私は菓子受け係?
恐る恐る蓋を開けると、ふわりと香ばしい匂いが立った。
小ぶりのマドレーヌ、フィナンシェ、紅茶の香りのクッキー。
見た目も完璧、焼き色も完璧、そして何より――
全部、私の好みど真ん中だった。
「……こわ」
「リリア様、声が漏れてます……」
「だってこわいよ! なんで知ってるの、私の好みを! 私、言ったことある!?」
「えっと……以前、食堂で『紅茶の香りのするクッキー、好き』と……」
「私の口は軽いの!? 私の口は!!!!」
悪役令嬢が好みを漏らしただけで、王子が毎日餌付けに来る世界線。
そんな分岐、ゲームにありましたっけ。
そのとき。
ガチャ。
ノックもなく扉が開いた。
「いる?」
軽い。軽すぎる。
振り向いた先にいたのは――噂の本人。
第一王子レオン・ヴァルディスは、制服姿でも異様に絵になる。
整った顔、金の髪、涼しい瞳。
近くにいるだけで空気が「王子」になる。ずるい。
「殿下、どうしてここに……」
「君が逃げるから」
責められた。
私は逃げている。断罪から。フラグから。主にあなたから。
殿下は机の上の木箱を見て、満足そうに頷く。
「届いたね。今日は軽めにした」
「軽めの基準がおかしいです。毎日なんですけど」
「毎日じゃないと忘れるだろ」
何を。
私の破滅予定? 忘れたくないんですけど?
殿下は当然のように机の端に腰掛けた。
距離。距離という概念。どこ。
私は反射的に椅子を少し引く。
殿下も同じぶんだけ身を乗り出してくる。
縮まる。縮まる! 縮まらないで!
「殿下……差し入れは……」
「嫌?」
その一言が、妙に真剣で、私は詰まった。
嫌と言えない。おやつは好きだ。悔しいくらい好きだ。
「……お菓子は、好きです。でも、その……」
「じゃあ問題ないね」
私の「その……」を回収して捨てないで!
殿下は木箱からクッキーを一枚取り、すっと私の口元に差し出した。
「はい」
「えっ」
「口、開けて」
空気が止まった。
マリアンヌが「ひっ」と小さく息を呑んだ。
私は固まったまま、殿下の手とクッキーを交互に見た。
これ、ラブコメでよくあるやつだ。
よくあるけど、実際にやられると羞恥が刺さる。心臓に。
「む、無理です! 自分で食べられます!」
「そう。じゃあ自分で食べて」
言い方が優しいのに、撤退を許さない感じがする。
私は勢いでクッキーを奪うように受け取り、口に入れた。
サクッ。
紅茶の香りがふわっと広がる。
美味しい。最悪。美味しいのが最悪。
殿下は私の顔を見て、目を細めた。
「……かわいい」
「今、なんて」
「顔」
顔。
クッキー食べてる顔がかわいい?
私は小動物じゃない。公爵令嬢だ。小動物じゃない!(二回目)
「殿下、私をからかってます?」
「からかってない。観察してる」
「もっと怖い単語を選ばないでください!」
殿下が小さく笑った、その瞬間。
廊下から複数の足音。
そして女の子たちの楽しげな声。
「リリア様ー!」
「今、いるー?」
私は青ざめた。
「殿下、誰か来ます! 隠れてください!」
「どうして?」
「どうしてって……!」
説明が難しい。
婚約者が部屋にいるのは本来問題じゃない。
なのにこの学園では、問題が「面白い方向」に育つ。育てるな。
扉が開き、令嬢たちが顔を覗かせた。
中心にいたのは、学園の特待生――平民出身の少女、セシリア。
いわゆる「ヒロイン枠」っぽい子だ。
セシリアは私を見るなり、ぱっと笑顔になった。
「リリア様! 今日も殿下の差し入れ、届きました?」
「……届いたよ」
「わぁ、やっぱり! すごいですよね、毎日ですよ!?」
「王子殿下、ほんとにリリア様が好きなんですね~!」
好き。
その単語が飛んできた瞬間、私は変な声が出そうになって飲み込んだ。
隣の殿下は平然としている。
平然としないでほしい。照れるとか否定するとか、そういう社会性を。
令嬢たちの視線が、私と殿下を行ったり来たりする。
頬を押さえたり、手を握り合ったり、なぜか祈ったりしている。
やめて。祝福みたいな空気を作らないで。
セシリアは木箱のリボンを見て、目を輝かせた。
「今日のリボン、深い青ですね! これって“独占”の色じゃなかったでしたっけ?」
「独占って何の独占!?」
「学園の噂です。贈り物のリボンの色で気持ちが分かるって」
いつ、誰が、何の目的で編み出した文化なの。
私は噂文化に断罪したい。
殿下が涼しい顔で言った。
「噂って便利だね」
「便利じゃないです……!」
令嬢たちが「きゃー!」と小さく悲鳴を上げる。
セシリアが「今のも甘い」とでも言いたげに頷いた。
味方がいない。胃薬だけが味方だ。
……胃薬。
そうだ、胃薬。
私は絶対にこの学園に胃薬を常備させる。公爵家の権力で。
そのとき、セシリアがふと真面目な顔をした。
「でも、リリア様。殿下って、断罪イベントの準備、進めてるって聞きましたよ?」
空気がぴしっと張った。
断罪。
来る。やっぱり来る。甘い差し入れで油断させて、最後に――!
私は殿下を見た。
殿下も私を見返した。
「準備はしてるよ」
心臓が、ひゅっと縮む。
「……やっぱり」
「君を守るために」
……はい?
私の脳が停止した。
令嬢たちの悲鳴が一段階上がった。
セシリアが胸の前で手を組み、なぜか神に感謝する顔をした。
「殿下、今のは口説きですね」
「口説きだよ」
認めた!!!?
私は頭を抱えた。
破滅回避計画が、砂糖の海に沈んでいく音がした。
殿下は私の机の上のメモをちらりと見て、声を落とす。
「リリア。君、何か勘違いしてない?」
「してません! してるのは殿下です!」
「僕は毎日、君に会いに来てるだけだよ」
「それが問題です!」
殿下は楽しそうに笑い、木箱を軽く叩いた。
「明日は、君が好きそうなチョコを用意する」
「聞いてない! 拒否権ください!」
「拒否は受け付けない」
「独裁!? 王子って独裁!?!?」
令嬢たちがまた盛り上がる。
セシリアまで「尊い……」と呟いている。誰が何の尊さを。
私は悟った。
破滅フラグより怖いものが、この学園にはある。
――距離感が壊れている王子の、毎日のおやつ。
断罪まで、あと三十六日。
私の理性がもつのは、果たして何日だろう。
たぶん、チョコが来たら終わる。




