玖利の隙
「5周目…!!!」
戦局が動かない。
レースは中盤から後半へと差し掛かろうとしている。
「沙紀、無線は…!?」
「だめみたい、お姉ちゃん…向こう側の設定でミュートになってる…」
遼先輩。
どうしてですか。
先輩は私たちが苦しんでたとき、いつも声をかけてくれたじゃないですか。
その役割を、私たちはさせてもらえないんですか?
さっきから胃がキリキリ痛んでます。
こんな状態であと5周、正気でいられる気がしません。
…。
そうか。
私が遼先輩と交信したいと思ったのは、自分が楽になるためだったのかもしれない。
真に先輩のことを想っていれば、黙っているのが正解なんだ。
私は先輩にアドバイスできるような技量も無ければ、緊張をほぐしてあげられる説得力もない。
この大会で、力を付けることはできたと思い込んでいたけれど。
まだ、本当の意味で遼先輩の力になることはできていないのだと痛感する。
別の世界に居るんだ。
東くんも、遼先輩も。
その世界に入ることが許されるのは、現時点では彼らしかいないんだと思う。
勝負は大将・遼先輩に委ねられた。
委ねる、という言葉でしか表現できないのが本当に悔しい。
サポートすることすら許されない。
今の私はグランドスタンドの観客と何ら変わりない。
ただ、祈るだけ。
…でも、どうしてだろうか。
遼先輩が負ける姿は、想像できない。
たとえ今後ろに居ようとも、どんなに相手が強大だろうと。
この大会で今まで一度も負けたことが無い遼先輩は、これからも負けることは無い気がする。
少なくとも今の先輩は、万全の状態であるはず。
だから、私は私のやるべきことをします。
そう、祈るんです。
笑っちゃいますよね。
あんだけ力になりたいって言っておいて、最終的に祈るだけとか。
でも、これが今の私にできる最善です。
だから。
どうか、勝って。
勝って、私に問い詰められてください。
『なんでミュートになんかしたんですか』って。
スタート直後から鳴り響いていた心臓の鼓動が、ようやく収まってきたように感じる。
冷静さを欠いていた思考が研ぎ澄まされていき、ただひたすらに前を行くオレンジの車体を追う。
相手の動きをよく観察すると、元々分かっていたことと新たに分かったことがいくつか羅列されていく。
コーナーの進入でのふらつきは前から知覚していた。
ただ、実際に超至近距離で玖利の走りを見ていると…。
「…やはり、見間違いじゃなさそうだな。」
低速コーナーの脱出で、一瞬だけ差が詰まるところがある。
こいつ…恐らくではあるが…。
「脱出でアクセルを緩めている…。」
意図的な操作だ。
俺との距離を図っているのか…それとも…。
「そのマシンセッティングでは、全開で立ち上がれないのか…?」
「…苦しいですね…!!!」
腕の疲労が、かなり限界に近づいています。
重たいハンドルを、コーナーの度に小刻みに操作しなければならない。
それも瞬間的に、素早く。
長期的な疲労と、短期的な筋力の限界。
その両方が、同時に襲ってきます。
レースは残り4周ほど…。
ここからは気力の勝負です。
遼さんだって決して楽についてきているわけではないはず。
コース中盤、ヘアピンカーブに入る。
内側に飛び込まれないように、インを締める。
3、2、1。
ギアを一気に下げ、そこから2速に入れ直す。
1速で立ち上がろうとすると、ホイールスピンを抑えきれない。
ギアの特性として、低いギアであればあるほどパワーが出るというものがあります。
回転数が上がりやすく、制御が難しい。
強大なパワーは、タイヤのグリップの限界を超えるとホイールスピンとして現れます。
だからこそギアを一段上げ、更に慎重なアクセルワークを心掛ける。
ぼくがこうしたピーキーなマシンを好む理由はいくつかあるのですが。
一番大きな理由としては…暴れ馬を自らの力で制御しているかのような支配感。
それの虜になってしまったから。
たとえそれが原因で、アクセル全開で立ち上がることができなくなったとしても。
…。
居ない。
遼さんがバックミラーから消えました。
…!
この音…!!!!!
立ち上がり重視のラインを通っていたとは思いましたが…。
それが狙いでしたか…!!!
ぼくの目には、ミラーを介さずとも横に並びかける遼さんのマシンが映っていました。
「悪いな、玖利。」
アクセルを緩めた隙は、あまりにも大きかった。
大きくは見えなかった隙も、見方を変えてみれば巨大な弱点へと成り代わる。
立ち上がり重視のラインで、速度差を充分に確保する。
何も勝負のしどころは、ブレーキングやコーナーの最中だけではない。
「俺は圧勝じゃなきゃ不調だって言われんだ。」
ストレートだって、立派なオーバーテイクポイントになりうるんだ。
「負けたら何言われるか分かったもんじゃない。」




