最後のチャンス
20周目。
10 Laps to go.
2位から3位までのギャップは、15秒まで広がった。
それほどまでにこの上位二台は、ペースを落とすことなく限界領域のバトルを続けていた。
現状は依然として朔也が前。
しかし、そのすぐ後方には玖利がピッタリと張り付く。
スタートからこんな状態が持続しているわけだ。
両者の精神力は、粗目の紙ヤスリでゴリゴリと削られていく。
1時間以上の間、極限の集中状態を維持しなければならない。
耳に響くチームメイトの無線はいつしか、二人にとっては意味を持たないただのノイズとして届くようになっていた。
だが、それはあまり問題にはならなかった。
彼らにとって、考えるべき真実は一つだけ。
ただ、誰よりも速く翔べばいい。
「だからって、わざと…!?」
純粋な驚きだけでは表せない声色で、朔也が問う。
玖利はばつが悪そうに頬を掻くと。
「はい。」
眉をハの字にして、笑ってみせる。
玖利もそれ相応の覚悟で、トライアルに臨んでいたはずなのに。
掴みかけたその席を、いとも簡単に手放していた。
玖利はこの選択を、後悔していたか。
この当時はよく分かっていなかったことだろうが、間違いなく良い手ごたえは返ってきていなかった。
玖利が望んでいたのは、トライアルに合格して喜ぶ二人の姿。
後腐れなく自分は去るつもりだった。
だが、幼子が善意によって行う行動は、時として想定通りにはいかないことがある。
この事象はまさにそれであった。
この選択は、間違いとまでは言わないが。
正解ではなかったのだということくらいは、当時の玖利にも理解できた。
玖利は決意する。
次は。
次こそは。
勝ち負けを考えずに、勝負をしたい。
字面だけ見れば矛盾の塊である。
だがその根底には、一本筋の通った思いがある。
いつもと変わることなく。
何気ない会話の中でこぼれる笑みを、絶やすことが無いように。
玖利はただ、レース後に笑い合いたかっただけだった。
「勝つか負けるかは、問題じゃなかったんです。」
ただ、それでも。
「全力を出し切るってことは、勝ちに行くってことと同義だと思います…!」
レイズアップシンフォニー、起動。
朔也から遅れること0.3秒。
玖利のマシンが宙に浮く。
コントロールラインを通過する前。
このラップは29周目。
そう。
つまり…。
「ファイナルラップ…!!!」
「朔也が1位、3位と4位も弊校が獲ってる。残りの周回数はたった1周。」
病室のモニター越し、試合を見つめる二人。
固唾を呑むという言葉はこの二人には似合わず。
ただゆったりと、ゲームの行く先を眺めているように思えた。
「これでも、朔也が負けるって?」
朱莉は勝ち誇ったような声で、隣に座る遼に目線を流した。
映像はトップグループを映したまま。
最終コーナーを立ち上がって、レイズアップシンフォニーを起動。
ファイナルラップへと入っていく二台。
「俺は予言者じゃないからな。そういうこともあるだろう」
遼は内心ほっとしたような、しかしどこかで引っかかるものがあるといった表情。
どうしたってライブのレースは予測不可能。
展開を完璧に言い当てるのは予言者でも無理な話である。
「随分弱気になったねぇ。あんだけかっこ付けて『朔也は…負ける…』とか言っといてさ」
横で嫌味っぽく笑う朱莉。
今度はバナナを食べている。
「一応根拠はあったんだがな。ま、朔也が勝つのも玖利が勝つのもあり得た話だ。」
モニターは、1コーナーを映していた。
ビル群の隙間から覗くドローンからの映像は、二台のどちらかを排除することなくハッキリと見ることができる。
そこに飛び込んでいく二台。
レースは、このドラマは。
もうすぐ終わる。
本大会の使用マシンの、R246でのホームストレートエンドの最高速は200キロを数える。
これは鈴鹿のそれよりも高い数値を示しており、いかにこのサーキットが大規模で、ハイスピードコースとなっているかが窺える。
特にその、ホームストレート終わりの1コーナーは注意が必要である。
例年でも、対戦相手とのブレーキング勝負に夢中になりすぎてオーバーランをし、曲がり切れずにコース外側のタイヤバリアへと突っ込む選手が現れることがしばしばある。
この大会のポイント制度の特性上、リタイアのマシンが一台でも出れば勝負権を失うことが多い。
完走が最も優先されるべき事項なのである。
「玖利くんはハードブレーキングで一瞬ふらつく…低速コーナー前で並ぶのは危険だな…。」
「朔也くん、インクリップが若干甘い。もう少しで突けそうな隙なんですけどね…!!!」
「トライアルに合格できるのは二人だけ、でしょ。」
「今度こそ、本気のキミとレースをしたい。」
「…約束する!」
「ぼくはもう、勝ちを譲ったりしない…!!!」
再びタイヤが接地し、ブレーキングに入る。
最後のチャンス、玖利が朔也の横に並びかけた。




