【第6章】この名に誓いを、秤に金を_020
「あんたが消えたあと俺は気がつ」
母親の命令に従わされた羊角の少年。
その呑気な思い出話は、しかし即座に中断された。
背後から少年の口を覆う色白い手。
もう片方の手から放たれた一条の黄金光が大淫魔を穿ち、その腰から上を跡形もなく消し飛ばす。
「あなた、ローラッドに何をしましたの」
「何って……お願いしただけよ。もう、乱暴なお嫁さんね」
黄金の令嬢は塞いだ少年の口が強制的に発声を続けさせられているのを感じ取りつつ、蜂蜜が溢れる断面から舞い飛ぶ数多の蝶を全て撃ち落とそうとして、やめた。
「でもそうね、せっかくご足労いただいたお嫁さんを放っておいて息子と話し込むなんて、お姑失格かしら?ローラッド、『お話はまた今度にしましょうか』」
「かはっ……!」
「ローラッド!」
エルミーナは支配から解放され、しかし苦痛に咳き込む羊角の少年を支える。
そうしている間にも、蝶は再び蜜へと集い、集合し、肉へと戻っていく。
「大丈夫ですか!?」
「肺から無理やり縛られるような感じだった……!」
「心配しなくても、ローラッドは頑丈だから大丈夫。そんなことよりも金色ちゃん、リリスとお話しましょうよ」
具体的な輪郭を取り戻したリリスは無邪気と妖艶をない混ぜにした笑みを浮かべる。
「それ以上近づかないで!さもないとまた」
「それっ、だーれだっ♪」
ただ1回の、瞬きの間。
瞼を一瞬下ろしたエルミーナの視界は、しかし、瞼を開けても闇に包まれたままだ。
耳元に囁く声、首筋に当たる甘い吐息。
「っ!?」
「うふふ、またもサプライズ成功ね」
少女の背後に現れたリリスは手を振り払われると同時に、わざとらしくおどけてみせた。
反射的に放たれた光線がその身体を通過するも、今度は蝶が舞うことすらない。
ただただ、少女に攻撃が無効であると突きつける。
「夢魔の領域では自然とは違う摂理が働くの」
幼い子供が先生の真似をするようにあどけなく知識を披露するリリス。
「だから、お嫁さんも『夢』の中でわたしとお話ししましょ?」
獣の瞳は令嬢の金色の瞳を覗き込んだ。
真横に裂けた瞳孔は深淵を湛え、引き延ばされた虹彩に混沌が渦を巻く。
淫魔の象徴、『支配』の虹色。
少女は魅入られる。
「交渉などお断りですわっ!」
「あら?」
だが黄金の令嬢は少しも怯まず、首を傾げるリリスから背後の少年を庇いながら啖呵を切る。
「わたくしに『夢』を見せようとしても無駄ですわよ。さあ、今すぐローラッドとの『契約』を破棄しなさい!さもなければ、『指輪』はわたくしが破壊します!それと、わたくしはまだ嫁入りしてませんわ!」
「なるほど、そういう体質なのね。それに光の暗示も組み合わせている。『夢』を見てくれないわけだわ。自分がしっかりしている、かわいい子……けれど」
「……!」
ずちゅ、ずちゅり、と。
息を呑む少女の前でリリスの瞳は千切れ、離れ、蜘蛛のように八つ裂きとなった。
「『夢』は怖くなんかない、楽しいものよ。わたしの力で見せてあげる」
「やめろっ!」
直前で異変に気付いたローラッドは介入に動いていたが、間に合わない。
8つの瞳が、金色の瞳に『夢』を流し込んでいく。
「わおんっ」
「ぐあっ」
そして。
振り向いた黄金の令嬢がローラッドへ体当たりし、押し倒す。
「ぐるるるるる……」
息を荒くし、低い声で唸るエルミーナ。
その自我は『夢』に塗りつぶされ、いつしか描き込まれた野性の本能と敵意が剥き出しになる。
「あらあら。わんちゃんになりたかったのね?それともローラッド、これはあなたの趣味なのかしら」
「エルミーナを元に戻せっ!」
「今のうちにお洋服も変えちゃいましょうか」
息子の言うことを無視し、大淫魔は指を鳴らす。
途端、黄金の令嬢が着ていたアーマードレスはほどけ、分解し、再構築された。
犬に成りきった表情は純白のヴェールに隠され、獣のように振舞う身体も窮屈なコルセットへと押し込められる。
「くぅ……」
そう、再構成されたのは祝福に満ちたブライダルドレス。
エルミーナは苦しそうにうめき、身体にまとわりつくその布切れを忌々しげに睨んだ。
「てめえ……!」
「怖い顔しないでローラッド、あなたにも着せてあげるから」
ぱちん、と気の抜けた音が鳴る。
その次の瞬間にはもう、少年の着ていた革鎧も黒きブライダルスーツへと変貌していた。
「エルミーナと言ったかしら?この子さっき、まだお嫁さんじゃないって言ったのよ」
死の間際に伏す獲物を狙う猛禽のように冷たく、そして獰猛に笑うリリス。
「『夢』の中で大好きなご主人と結ばれるわんちゃんというのも、面白そうよねぇ?」
悪意の込められた言葉、掲げられた指。
「わかったよ」
ローラッドはうなだれて、母親が少女を凌辱してしまう前に右手を差し出した。
「もう、わかった。大人しく『指輪』は返すから、それ以上はやめてくれ……」
「そう?それなら頂こうかしら」
大淫魔は目を細くし、掲げた指を開いて息子の方へと差し出した。
まるで見えない糸で引っ張られるように、ローラッドの右手からするりと抜けた『指輪』はあるべき場所へと戻っていく。
「ようやく戻ってきた。吸血鬼が持って行っちゃった時はどうしようと思ったけど、これで……」
紅き宝石を抱いた『指輪』はリリスの左の薬指へ通されていく。
その瞬間を、少年の獣の瞳は見ていた。
「いたっ!?」
リリスが少女のような悲鳴をあげる。
『指輪』が嵌った、その左薬指。
根本で『指輪』に接触した肌が、青白い炎を上げて燃え始めたのだ。
「よしっ!起きろ、エルミーナ!」
「はっ!?」
ローラッドが肩を叩くと、虚ろな目をしたエルミーナは正気を取り戻した。
『支配』が解けているのだ。
「俺がただ『指輪』を返しにくるわけねえだろ、クソババア」
羊角の少年は黄金の令嬢を抱き寄せて庇いつつ、勝ち誇って言う。
「『精霊界』には『魔族』を祓うための『術』があんだよ。てめえが昔っから散々分身を使ってちょっかいを出してたお陰でな」
「熱い、熱いわこれっ!?ローラッド、何でこんなことを!」
リリスは青白い炎を擦ったり叩いたりするが、炎の勢いは弱まるどころかその全身を覆っていく。
「何でだと?ハッ、『夢』にまみれたその脳ミソで一生懸命考えやがれ」
「そんな……ローラッド……」
全身を覆った青白い炎が大淫魔から輪郭を奪っていく。
そして、あとには真っ白な灰だけが残った。
「さて、これで終わりか」
ローラッドはゆっくりと立ち上がり、座り込んだ黄金の令嬢に手を伸ばす。
「帰ろう、エルミーナ」
「ええ」
返事をした少女は顔を上げる。
全てが真白く塗りつぶされた、表情のない貌を。
「っ……!」
「アハハハハハハハハッ」
無貌の少女は狂ったように嗤い、破裂した。
肉片は蝶となって飛び散り、柔らかな黒曜の床へと還元していく。
「サプラ~イズ!お母さんは『夢』を見せるのが得意なの、忘れてたの?そんなわけないわよね」
震える少年の後ろから、聞きたくもない声がする。
「でも一応、効いたのよ?ローラッド。あなたが見つけてきた『術』って、よくできているのね」
この世で最も無邪気で、最も美しくて、最も醜悪な声。
「お母さんも久しぶりに焦ったわ。ここにいるリリスは最初の存在だから」
ため息交じりに、それでも愛おしげに。
「けれど、まさか一回分だなんて」
振り向きたくない。
だが、振り向かなければならない。
意を決して振り向いた羊角の少年へ、大淫魔は語り掛ける。
「『自在存在』を本当に殺すなら、名前ごと抹消するくらいじゃないとダメよ?」
両手を縛り上げた黄金の令嬢を傍らにして、そして息子の絶望の表情を見て、母親は微笑む。
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