11°
雨の予報は当たったようだ。少しばかりの湿り気と、外からのうっとうしい音さえなければ、もっとよりよい朝を迎えられただろう。ピピピッと単調な電子音が、ゆっくりと過ぎていく朝をさらに騒がしくさせてくれる。時計についている日付を確認してみた。7月3日の月曜日。今日は高校の登校の日だ。昨日までの休みとは違い、今日はいかなければならないという義務感で、無理にでも体をベッドから引き離す。
「ふあぁ……」
あくびを一つ。そのうえで、起きながらも今日の予定を頭で考える。少なくとも高校行って帰る。それだけなものだ。ただ、なにか変だ。そんな思いが頭をよぎる。こんな生活、いつもしていた。でも、違う。間違いなくこれは前もしていた。
朝ご飯は野菜ジュースをコップ一杯。それも一気に飲み干してさらに麦茶をもう一杯。これがいつもの朝食だ。そして、さっさと着替えて家から出ていく。
「おはよう」
玄関からすぐに階段になっていて、途中には踊り場がある。踊り場からはもう一つ、家の裏側へと向かう石畳の道へとつながっているが、どうせ裏側といっても、小さな庭があるだけだ。だが、声をかけてきたのは目の前。踊り場からさらに3段ほど降りた横格子の玄関扉の向こうに傘をさして立っている、同じ高校の女子生徒だ。
「おう、おはよう」
何度となく繰り返しているこの会話も、なんとなく気持ち悪く感じる。だが、相手である、幼馴染の久崎あんずはそんなことも思いもしていないような、いつもの笑顔を俺に向けてくれる。半透明のピンク色の傘から見える顔つきには、何にも違和感を感じない。
「どうかしたの、何か浮かない顔しているけど」
「いや、変なこと言うかもしれないけどさ……」
今日の朝からのことを、玄関扉を閉めながら話す。
「ああそれってデジャヴっていうやつかも」
「それって体験したことがないことが、体験したことがあるっていう感覚のやつか」
確かに、今の俺の状況だとぴったりかもしれない。カチッとパズルのピースがはまるような、そんな感覚がある。
「そうそう、それかもしれないわね」
あんずが言いつつも、俺と一緒の速度で道を歩き出した。途中、車道で車に追い抜かれたり、ほかの話もしたりと、結局はいつものような通学路だった。あのへんな夢のとおりには、とうとうならなかった。
放課後。俺は高校は同じでも、あんずとは部活は違う。
「じゃあね」
「おう、あとでな」
同じクラスで授業を受けていながらも、別々の部活にいくものだから、結局ここでは離れ離れになってしまう。あんずは料理部に入っている。一方の俺はというと運動部に入っているからだ。とはいっても、今日は外が雨だから、屋内練習になる予定ではある。そうならば少しは早めの料理部の部室へと向かうことができるだろう。
その思いが果たされるのは、思ったよりも早かった。なんでも、顧問が出かけなければならない用事ができたとのことで、部活を早めに切り上げるようにという指示が出たからだ。そのおかげで、部活は1時間かそこらで終わり、あっというまに後片付けも終えると、俺は意気揚々と料理部の部室へと向かう。ただの家庭科室だ。
「ちわっす」
「あれ?」
ドアを開けた途端、真っ先に俺に気づいたのはあんずだ。ただ、いつもよりも1時間も早く来たことに驚いているようだ。
「今日は早いんだね」
「顧問がもう帰れって言うもんだからな。んで家帰る前にこっちに寄ったんだ」
ちょうど何かを作っているタイミングだったようだ。それが何かはドアから一歩中に入る、前に気づいた。
「今日はクッキーでも焼いてたのか」
「そうそう。一ついる?少し生地が余っちゃっててね」
予定よりももしかしたら1枚あたりが小さくなっているかもしれない。でも、生地が余っているのなら、それはもったいないだろう。
「今から、大丈夫なのか」
もちろん、焼く時間についてだ。
「まだ時間あるし、大丈夫」
あんずはちらっと壁掛けの時計を見る。確かに、放課後で閉門時間まであと1時間半くらいはある。
「んじゃあ、頼もうかな」
そういって俺はようやく家庭科室へと入ることができた。
サクサクチョコクッキーは、とてもおいしく食べれた。俺はそのままお客さんのような立場であったがために、椅子に座りながらあんずの様子を見ることになった。ちゃっちゃと手際よく作っていくあんずの様子を見ているのを、どうやらほかの料理部の部員に視られていたようだ。
「あの、まだあんずちゃんと付き合ってないって本当なんですか」
ガッチャンと遠くで何かが落ちた音がする。
「そうだな、まだ付き合っちゃいないな。それがどうした?」
あんずの同級生だろう。制服のリボンの色が同じだ。
「じゃああたしと付き合ってくれませんか」
今度は何かが投げつけられてくる。ひょいと避ける同級生に対して、避けられないと判断したのか俺は無意識のうちにそれをつかんでいた。混ぜるときに使ったであろう泡だて器が、きれいな状態で、だがまだ濡れている。
「残念だけどね、そうやってあんずの気持ちを揺さぶるのはやめてくれないかな」
努めて冷静に、俺は同級生へと話す。どっちにしろ本気じゃないのは表情でわかっていたが、そういわれて何かしらのいやな気持になった。
「じゃあ……」
二の句を継ぐ前に、同級生は部長らしい人にあっちに行くように、と部屋の反対側へ移動させられた。
「しばらく来ない方がいいか?」
「ううん、気にしないで。分かってると思うけど冗談だろうから」
あんずは言いつつも、クッキーを一つ俺の口へと放り込んできた。甘い香りとともに、いい味が口中に一瞬で広がっていった。
「うまいな」
「でしょ」
「彼女に最適でしょ」
遠くからでも声は届くんだ、そう思わせてくれる彼女だった。
「じゃあね」
「おう、また明日な」
俺はあんずとの帰り道、特に気まずくなることもなく普通に歩いていた。家までついても、あんずはいつもと同じように振る舞ってくれている。
「ねぇ」
だが、何か言いたいようだ。玄関外のドアを開けて、敷地の中へと足を踏み入れていた俺を、あんずは呼び止めた。
「あのとき、部室で言われたこと」
「ああ、まああいつの冗談なんだろ。気にするなって」
俺は笑いながら答える。
「でも、聞きたいの」
いつになく真剣な顔。夕陽に照らされているあんずの顔は、少し泣きそうな顔をしている。
「……明日、でいいか」
「うん、急に答えられないのもわかってた」
残念そうな顔、でも俺の気持ちもわかってくれているのがわかった。
「また明日、ね」
「ああ、また明日」
うなだれているあずを横目に、俺は家へと入った。