世界中の政治家が猫好きに変わったら
公共放送で時折りやっているネコメンタリーを見終わってつくづく思ったのは、こうした物書きや絵描きの猫好きは指を折るようにパラパラパラ浮かぶのに、古今東西まで広げても政治家で顔の浮かぶのはひとりとして見つからない。
ー 政治家なのに、犬好きではなく猫好きな、珍しい人たち。
たぶん、そんな透き間企画を落とし込んだところで、たとえ一部にマニアックな政治家やそれにまつわるエピソードがあったとしても、そこから一気に面が広がるようなグルーブ感なんて生まれず尻すぼみのエンディングが待ってるだけだろう。再現映像でどれだけ演出で塗りたくろうが、言うことをきかない思い通りにならない猫を見つめる政治家なんて、それをきっかけに粉骨砕身のドラマが生まれるなんてないから。
ー きっと、そうなんだろう。
いま戦争の渦中にいるあの政治家は犬好きらしい。それを有名とする類の写真やエピソードはたくさん溢れている。言うことをきかない思い通りにならない政治家を癒すのは、どんなときも自分を見つめてくれる犬なのだ。猫なんか見たら、世の中にあふれてるのは「あなたが描いたそんな未来なんかひとつとして存在しない」のテーゼを教えてくれるだけだから。
戦闘服や光沢のはいったスーツで固く守っている内側の一番柔らかな部分を、安心して任せられる愛しい存在に、猫はけっしてなったりはしない。
猫は、そんな悩み多き人間に寄り添うのでなく、付き合ってくれるだけだ。せっかくこんなにいいお天気なのに、額の皺の増える真似ばかりやって、バカバカしい。ちらっと一瞥したそんな眼がそう言ってるのかと探らせるだけだ。
あくせくの未練には、けっして仲間にならない。そんな俯瞰が心地いい。
モヤモヤと一緒にいままでに積みあがていたものを蹴っとばす、勇気を与えてくれる。
物書きにせよ画家にせよ、制作中のモヤモヤはパーソナルなものだから、猫が教えてくれる俯瞰や勇気がいずれかたちに貢献してくれる。
けれど、政治家はこの世の唯一のものしか相手にしない。唯一のキャンバスでありディスプレイだ。だから、どんなにモヤモヤした相手でも蹴ってガレキにしてはいけないはずだ。
けれど、やってるいる結果にガレキは生まれる、ついて回る。どこで間違ったか、いや、間違いなどあり得ようがない。そう固く信じてる。信じてるおのれを踏み砕くような相手に癒しや愛しさは求めたくはない。
でも、一度くらい、そんな自分をペチャンコにする相手に愛しさを見出したら。そうすれば、「いや、間違いなどあり得ようがない」なんて自分をいつでも追い出す透き間が生まれるから。
だから、愛犬に頬ずりするとき、向こう側にいる猫にも愛しさの視線を振り向けるだけの愛情を残しておいてほしい。
お願いだから。