姉弟の枷
三春がソレを見たのは学校帰りの事だった。四歳下の弟、幸生と共に家のドアを開けリビングへと入った先にその光景は広がっていた。鼻をついた鉄臭さに遅れ、まず目に入ったのは窓から漏れる夕日に当たり、赤黒く照らされた液体だった。それは紛れもなく父親の体から漏れ出た血であった。
ぐったりと力無く倒れた父親の傍には母の姿があった。いつも明るく気丈で、姉弟にとって自慢の母親であったはずの彼女は今、憔悴しきった白い顔で虚空へと視線を置いている。髪は激しく乱れ、汗で頬に張り付いていた。
両親は二人とも微動だにしない。そのせいで三春は当初両親が二人とも死んでしまったのだと勘違いした。母の手には血がべっとりと付着した包丁が握られていた。何度も刺したらしく、刃先は少し折れ曲がっているようだった。
「おかあさん……?」
口を開いたのは三春の隣にいた幸生だった。震える声で母を呼び、姉から離れて一歩、また一歩と母の元へと歩んでいった。母もやがて姉弟の存在に気が付き、白い靴下を血に染め自分のすぐ側まで近付いてきていた幸生の顔をぼうっ、と眺めた。
その時母親が浮かべた表情を三春は今でも覚えている。深い絶望に光を失った目には涙が浮かび、やたら青白い頬は歪み、引きつっていた。母は「おかえり」と一言呟き、そしてとうとう泣き出してしまった。包丁を床に置き、血塗れの腕で幸生の体を抱きしめ、まるで小さな子供のように大声を上げて泣き出した。
母のそんな姿を見た事が無かった三春と幸生は、暫く呆気に取られ動けずにいた。父だった死体が視界の端にチラついている。うつ伏せで表情こそ見えないが、まるで眠っているようだと三春は思った。
背中に無数の刺傷があり、そこから血が溢れるように流れ出ている事を除けば、何らいつも通り。深夜まで酒を飲み、いびきをかいて眠りこける父の姿とまるで変わりないものだった。
やがて家の外からパトカーの音が聞こえてきた。
「私が呼んだの」
母が言った。幸生を腕に抱き締めながら、顔は三春の方を向いている。視線は細かく揺れ動き、視界の中に娘の姿を映しこそすれども、まっすぐその姿を見つめているようには決して見えなかった。
「こ、この人を殺してすぐ。あなた達が帰ってくる少し前に」
「……お母さんが、殺したの? お父さんを」
三春が訊ねるとうん、と母は頷いた。彼女は笑っていた。いつもの太陽のような明るい笑みではなく、底抜けに暗いトンネルのような顔で。沈痛極まりない母の表情に、尚も何か話そうと口を開いた三春だったが、それより早く家のインターホンが鳴らされた。
一度、少し間を開けて二度目。反応を見せないでいるとノックの音に次いで、警察です。という男の声がした。
「ごめんね、勝手な母親で」
幸生の体を放し、母は立ち上がった。家の仕事をする時に決まってつけていた黄色のエプロンは今や深紅に染まっている。ペンキをぶちまけたような飛沫が乱雑に足先まで飛び散り、ゆっくりと滲んでいっている。母は死体の傍らに置かれていた包丁を手に取り、玄関へゆっくりと歩いていった。
母の腕から解かれた幸生は目に涙を浮かべていた。元々静かな弟なので、声を漏らす事こそ無かったが、どれだけ拭っても止まることの無い涙に、弟は四苦八苦していた。あっという間に袖はグシャグシャに濡れしきり、その場にしゃがみこんでしまった。
「幸生」
三春は絞り出すようにしてたった一言だけ声を発した。それに反応した幸生は瞼周りを赤くしたまま、潤んだ目で姉の方を向いた。二人の視界の端には依然父の死体が映っている。
「幸生」
しかし二人は……少なくとも三春は、父の死そのものには大して関心が無かった。姉弟の父である男は、常日頃から酒を飲み、溺れるほどに酔っ払っては好き勝手に暴力を振るうような男だったからだ。
母や三春、今よりずっと幼かった幸生だって何度も殴られそうになった。その度に三春が必死に庇い、蹴られた腹の痛みで寝られない日もあった。
そうした父の傍若無人ぶりから愛を感じた事も、また三春自身父に対して家族愛を胸にした事も無かった。暴力を振るう他人、彼女にとって父はせいぜいそんな所でしかなかった。
だから少女は、自身の父が死んだ事を実にすんなりと受け入れていた。ショックだったのは手を掛けたのが母であった事だ。眼前でしとど泣き濡れている弟もまた同じなのだろう。
三春は数度弟の名前を呼び、頬の血痕を手でそっと拭った。母に抱き締められた時についたらしい。
涙でグズグズになった弟の肌は酷く熱を持っていて、今にも溶けてしまいそうな程に脆く感じた。
「ねぇ幸生、大丈夫だよ。お姉ちゃんが居るよ」
「うん、うん……」
三春の手に幸生の小さな手が重なる。頬の肌と同じく、熱を帯びていた。すぐ背後、玄関の方で母と警察が話している声を耳にしながら、少女は泣きじゃくる弟とはまるで反対の顔をしていた。鏡があればきっと三春自身も驚く程に、少女は無機質な表情を浮かべていた。
朝、学校の為に姉弟が家を出る時には間違いなく生きていた人が、自身の妻によって殺された。文章化するとこんなにも簡素で異常な出来事は、彼女の思考回路から信頼という言葉をゆっくりと欠落させていった。家族が家族を殺すというのなら、果たして自分は誰を信じれば良いというのだろう?
学校の友人? 先生? それとも隣の家のおばさん? どれも今や彼女からすれば、まるで信用に値しない赤の他人でしかなかった。言葉すら交したくない、父の体から漏れる血と同じ色をした赤黒い他人だ。
母は―――どうだろう。でも、あの包丁は何か一つ歯車がズレていれば幸生や、三春自身の体も同様に貫いていたかもしれない。何度も何度も、執拗に。完全に事切れるまで延々と。
気が付けばリビングには警察の姿があった。体格の良い男が二人だけ。外にまだ居るのかもしれないが、小さな姉弟の視界を埋めるには十分な人数だった。
警察らは死体を確認し、母親を捕らえた。三春は初めて「ぼやかし」の入っていない手錠を目にした。テレビではいつも明確に描写されず、ニュースでも手元に布なんかを掛けられていて中々目にする機会もない。それが今、実の母の手に掛かっている。狂気であった包丁は既に警察へと渡したのか、母の手は空っぽであった。顔色も家に帰ってきたばかりの頃よりずっと悪くなっている。目も虚ろで、幸生が泣きながら駆け寄っていっても今度はまるで反応を見せなかった。ただ立っているだけ、息をしているだけで中身はもう、とっくに壊れてしまったんだろう。そう三春は思った。
三春と幸生という子供が産まれるよりもずっと前から二人で生活し、歪みつつも日常を共にしていた人間を自らの手で殺したのだ。母は改めて父の死体を見下ろし、刺傷でグチャグチャになった背中を見て視線を天井へと上げた。幸生を見ないようにしているのか、はたまた殺した父の事を想ったのか。三春がその答えを聞くより早く、死体を見ていた一人の警察がおもむろに彼女の肩を優しく叩いた。
振り向くと警察は三春に対し苦々しい笑みを浮かべながら、たった一言の僅かな言葉を投げかけた。災難だったね、と。
目を覚ました三春は、暫くの間知らない天井をぼうっと見上げていた。寝ぼけているのか、寝起きで霞む目が段々と開けていくのを待ちながら動きもせずに上を見ていた。
事件が起きて数週間、三春ら姉弟は隣町の保護施設に移り住む事になった。母が警察に連れていかれ、祖父母といった親族も姉弟の預りを尽く拒否した為だ。
保護施設は立派なマンションのような見た目をしていて、その中には談話室や勉強部屋、小さな図書室なんて部屋もあった。姉弟が暮らしているのはごく普通の二人部屋。家具はベッドやクローゼットのみ、他の子供たちが生活するのと同じ八畳程度の簡素な部屋だった。
ベッドに潜ったまま顔だけ隣に向けると、すぐそこに幸生の寝顔があった。悪い夢でも見ているのか顔は辛そうに歪み、うぅ、と声を漏らしている。パジャマの襟に染みがつくほど汗でびっしょりと濡れていた。
三春は弟を起こさないよう静かに起き出し、部屋の中に置かれたタオルを手に弟の傍に腰掛けた。汗を拭い、布団をかけ直してやる。ふと時計を見ればまだ朝の五時で、起きるには少しばかり早い時間だった。春先の太陽はまだ昇りきっておらず、空気もやや冷たい。にわかに鳥が起き出した外へ出て息を吐けば、あっという間に白くなって空へと消えていく事だろう。
もう一度寝てしまおうか。なんて事を考えながら幸生のおでこをそっと撫でやると、彼は少し落ち着いたのか険しかった寝顔を少しばかり緩ませ、汗の流れも段々と緩やかなものへとなっていった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃんが居るからね……」
小さく呟き、顔にかかっていた髪をそっと払うと未だに嗅ぎ慣れないシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。三春もそうだがいつの間にか髪の毛が伸びてしまった。いつも母に整えてもらっていたせいでゴワゴワとしている。三春は毛先が肩程まで伸び、幸生も普段よりずっと長く、耳元に掛かるくらいだった。
母は……今は裁判をしているらしい。一昨日留置所へ会いに行った時には、その変わり果てた風貌に姉弟はとても驚かされた。活力に満ち、笑顔の眩しかった母と同一人物に思えないほどに枯れきったその顔は土気色に染まり、一度も視線が合うことはなかった。面会の部屋が暗かったせいか、目に光が宿っていないようにも見えた。要は殆ど死んでいるように見えたのだ。少なくとも、三春には。伸びた髪の毛が些細な事に思える程に母は変わってしまっていた。
幸生は母に会えたのが嬉しかったのか沢山の話をしていた。話の内容はほとんど覚えていない。母はまるで口を開かず、たまに「ごめんね」とうわ言のように呟くばかりで、まるで会話になっていなかった。記憶にあるのはそのくらいだ。
三春は幸生の隣に寝そべり、彼が寝つけずにグズる時母がよくやっていたように布団越しに彼の胸を優しくとん、とんとゆっくりと何度も叩いた。すると弟はすぅっと呼吸を和らげ、安心したように再び深く夢の中へと落ちていった。ようやく悪夢が終わったらしい。弟にはずっと楽しい夢だけを見ていて欲しい。平和で、優しい夢を。
三春は尚も弟の胸を撫でるように叩きながら、一つ大きな欠伸をした。そのまま顔を伏せて目を瞑り、微睡みの向こうへとゆっくり沈んでいった。
三春は夢を見た。と言っても、さっきまでとおよそ変わらない光景だ。母が父を殺し、その様を少し離れた所から見つめる少女自身の視点の夢だった。
父はヘドロのようにフローリングへと溶けだし、やがて原型を失っていった。母もそうだ。幸生が必死に泣きつき、母の名前を呼ぶが聞こえていないのか返事もせずに体を泥に変えていく。
そんな非現実的な様相に目を奪われていると、ふと彼女の肩に手が置かれた。振り向くとそこにはつい先程溶けて消えたはずの父と母がそこに居た。肩の手に力が込められ、抵抗も虚しく三春はいとも容易く地面へと仰向けに倒されてしまった。
「お母さん……お父さん……?」
二人は何も言わない。いつの間にか手には「あの」包丁が握られている。あぁ、きっと私も殺されるんだ。三春は抗うのを止め、両親に押さえ付けられるまま身体の自由を投げ出した。そして包丁の切っ先が彼女の胸に突き立てられ――た、所で三春はまた目を覚ますのだった。
施設での暮らしは極めて平穏そのものだった。食事等の生活の面倒を見てくれる職員、そして保母たちは皆優しく、姉弟よりも長く施設に住んでいる子供たちもそれぞれが様々な事情を抱えているせいか、彼女らについて深く言及することも無かったので、自由時間に少々騒がしくなる事を除けば特に面倒のない優れた場所だった。
何か問題があるとすれば、それは姉弟の二人にあった。
「止めて、来ないで。話しかけないで、放っておいて」
これは保母の一人である中年の女性に対しての言葉だ。誰に話しかけられても大体この四つの内どれかで返事をする事から、他の子供たちからは「三春四段活用」として揶揄されていた。
あの事件以降、三春は自分と弟の幸生以外は誰も信用しないようにしよう。自分にそう固く誓った。誰も信用出来ないからだ。母が父を殺した、という出来事はトラウマとなり、強く少女の胸に根付き離れなくなってしまっていた。弟の幸生にも「自分たち以外誰も信じちゃダメだからね」、と度々言い聞かせているくらいだ。
保母たち職員も当初は根気強く彼女の気を取ろうと策を練ったがやがて諦め、今では付かず離れずといった微妙な距離感でしか関わろうとしない。言ってしまえば厄介者として扱われていた。
「うわああああんお姉ちゃああああああん」
そして姉に劣らず、弟もまた施設の住人たちの頭を悩ませていた。元来とても大人しく、滅多に泣いたり喚いたりする事の無かった幸生は、例えば姉とほんの少し離れたり、姉の姿が見えなくなるだけで大泣きするほどに精神が退行してしまった。こちらはまるで赤ん坊のようだと影で笑われていた。
姉弟に降りかかった出来事を重く見た施設の職員たちは彼女らにメンタルケアを施す為、定期的に心理カウンセラーを呼ぶ事があった。殆どが姉弟二人並んで、共にほんの簡単な対話を行うだけだったが、たまに一人ずつ別個に行うことがあった。
姉から離れる事を徹底的に拒み、寝食は勿論お風呂にさえ後をついていく幸生を半ば無理やり引き剥がすようにして、カウンセラーの部屋へ入れようとする。そしてその度にこうして幸生の絶叫に近い大声が施設内に響き渡るのだから、職員たちも困り果ててしまっていた。
姉弟は他の子供たちが施設内の食堂、施設に住む子供たちおよそ五十人程を、全員入れてまだ余裕のある広い部屋で揃って晩御飯を食べる時も決まって他と距離を置いて座り、会話に混ざろうともせずにすぐに自分たちの部屋へ帰ってしまうほどだった。
今日もまたいつものように早々と夕食後部屋へ引っ込んでしまった姉弟は、パジャマ姿もそのままに二人並んで未だ留置所に居る母への手紙を書いていた。
そんな中突然部屋へ響いたノックと保母の、
「三春ちゃん、幸生くん。居るかしらー?」という声に大いに驚かされた。その後部屋のドアを開けに行ったのは三春だった。そのすぐ後ろには幸生の姿もあり、姉の背中に隠れながら半分だけ顔を覗かせていた。
ドアの向こうに立っていたのは声の通り保母の一人だった。Tシャツにエプロンという服装がやたらと似合っている。
何人もいる保母のうち、最も姉弟の事を気にかけ、距離を詰めようと努力した人物であった。丸っこい見た目や、目元にこびり付いた笑いジワが何とも取っ付きやすそうな雰囲気を醸し出している。子供たちは彼女の事を時折「お母さん」と呼び、保母もまたそれを喜んでいた。
三春は幸生に向けていた優しげな表情から一息に怒気の孕んだ物に変え、自分より背の高い保母を睨み上げながら「何ですか?」と言った。
「急にごめんなさいね。二人とも、ちゃんとお腹いっぱいになった? あんまり食べないと大きくなれないわよ?」
「放っておいて下さい、ちゃんと食べてますから。私も、弟も」
「なら良いんだけど……あぁそうそう、用事なんだけどね。二人とも、来週辺りからこの街の小学校に通ってみない? 勿論学費なんかはこっちが負担するから……どう?」
どう、って……と三春は思わず口をつぐんでしまった。
この施設に住んでいる子供たちの殆どは小学生低学年から高学年くらいの年齢ばかりだ。最年長でも中学生ほどで、殆どが学校に通っている。前々から保母や職員の人達から度々そういう話をする事があった。だがその度に三春は返事を有耶無耶にし、煙に巻いてきた。
何も学校が憎い訳では無い。むしろ好きだった。友達は沢山居た、勉強してテストで結果を出すのも悪い気はしない。母がとても喜んでくれたからだ。難しいテストで百点を取った時は、父すらもほんの一言だけ褒めてくれた事がある。だから三春は学校に通うこと自体に不安があるわけではなかった。
「幸生くんはどうしたい? 学校行きたい?」
「……やだ、お姉ちゃんといっしょが良い」
幸生の手が三春の手を握る。不安を覚えているのか、酷く冷たい上に少し震えていた。三春は両手でもってそれを握り返した。すると手を震わしていたのは弟だけではなく、自分もまた同じである事に気が付いた。幸生が姉から離れる事を拒むように、三春もまた弟の傍に居たいと思っていたからだ。
そんな二人の様子に保母は困ったような顔を浮かべ、立ったまま両腕を組みうんうんと唸り出した。
「一緒って言われてもねぇ……うぅん……あぁ、そうだ。保健室登校はどう? それなら他の子供たちと必要以上にコミュニケーションを取る必要も無いしね」
良いアイデアでしょ? と保母は膝を曲げて三春の高さに視線を合わせ、パチンとウインクして見せた。
「ほけんしつとうこう……?」
「そうよぉ、教室じゃなくて保健室でお勉強するの。休み時間とか給食もお姉ちゃんと一緒。それなら幸生くんも学校行けそう?」
「……うん」
幸生が頷いて見せた。次いで背後から三春の顔を覗き、視線で促してきた。幸生は度々こうして最終的な判断を姉に委ねる事があった。まだ八歳の少年なのだからごく普通と言えばそうだ。
三春もまた弟の目を見やり、小さく頷くと保母の方へ視線を戻し「じゃあ、それで」と短く答えた。すると保母は途端に嬉しそうな気色を満面にたたえ、拳を固めて小さくガッツポーズまでしだした。よっぽど姉弟が学校に行く事に喜んでいるのか、顔が若干赤く上気している。
そうして二人は数週間後、隣町からの転校生として新しい小学校へと通う事になった。幸いにもランドセルや教科書は前のままで良かったので準備は手早く進み、あっという間に登校初日となった。
「二人とも、忘れ物は無い?」
「……」
中に幾つかの教科書と給食用のお箸なんかが入った赤ランドセルを背負い、三春は施設の門をくぐった。やはり後ろには幸生の姿もある。こちらは黒のランドセルで、頭には低学年特有の黄色い帽子を被っている。
二人に転向を勧めたあの保母もまた二人のすぐ後ろをついて歩いている。初日という事もあり、学校までの案内をする事になっていたのだ。三春は近いし要らない、と何度も断ったが結局は一緒に行くことになった。その事に苛立ちを覚えていた三春は朝から彼女と一言も口を聞いていない。
それなのに保母自身は構わず喋り倒している。やれ寒くないかだの、先生が優しいだのなんだの。大して三春にとって興味の無い話ばかり。
葉の中に桜が混じり出す時期なので未だ外気はやや冷たく、昼間になればそこそこに暖かいが、朝方はまだ冷える。その為、風邪を危惧した保母によって二人は厳重な厚着を課せられていた。コートやマフラーに手袋と全身満点装備のせいで、歩いていると額に汗が浮かんでくる。
「三春ちゃんも幸生くんも、前の学校でもちゃんと勉強出来てたみたいだし。テストの点数とか期待しちゃうわねぇ。もし百点取ったら施設の皆には内緒で何でも一つ、お菓子を買ってあげる」
「おかし……」
幸生がポツリと呟いた。姉と手を握り合い、延々と続くアスファルトの道を見つめながら、ポツリと。食いついたのが嬉しかったのか、保母は自身の両手を合わせて大きな声で「えぇ」と言った。
「――っとと、言ってる間に見えてきたわね。ほらアソコ、横断歩道の向こうよ」
保母が指差す先には確かに学校の姿があった。どこの街でも大差ない外見に、三春は思わずホッとしてしまった。赤信号に待ちぼうけを食らい、ようやく信号が青くなった所を保母の先導で進んでいった。住宅街の中に埋もれるようにして建てられた学校はいかにも古そうで、中からは生徒たちの活気に満ち溢れた声が聞こえてくる。
既に登校時間もギリギリになり、校門周りには当番の先生が一人立っているだけで、人集りは少ない。その為か姉弟及び保母の姿にすぐに気が付き、小走りでこちらへと駆け寄ってきた。ラフなジャージ姿が良く似合う若い男の先生だった。
「おはようございます!」
「おはようございます先生。ほら二人も挨拶しなさい? 朝の挨拶って気持ちいいのよ?」
「「……」」
「あ、あはは……うん。まぁ無理してしなくても良いよ。えーと、君が三春さんで、君が幸生くんだね?」
三春は黙って頷いた。決して視線は合わせない。それに習うように幸生もまた小さく頷いた。それで満足だったのか先生もうんうんと頷き、保母から引率を引き継いで姉弟を校内へと連れ立っていった。
保健室は不思議な匂いがする。他の教室は無い、太陽に当てられた布団の匂いだ。それに図書室とはまた違う類の静けさがあり、前の学校の時は何となく怖くて、三春はあまり保健室が好きではなかった。そんな緊張を察してか、幸生が不安気な目を送ってくる。三春は咄嗟に笑顔を繕い弟へと向けた。
「じゃあ入るよ? 失礼しまーす」
引き戸を開けると、向こう側にはステレオタイプの保健室があった。幾つもの「C」が書かれた視力検査表や、隅に追いやられた体重計に身長計、本棚には子供向けの医療書が並べられている。その奥に机が一つ置かれていて、そこで熱心に作業をしている人影があった。これまたよくある白衣姿を着用した人影は手を止め、おもむろに立ち上がると引き戸の方へと顔を向けた。
「いらっしゃい二人とも。先生、ここからは私が」
「あぁー、じゃあお願いします山名先生」
ジャージの先生はペコペコと頭を下げ、引き戸を閉めて廊下へと姿を消していった。姉弟は一歩だけ保健室に足を踏み入れ、初めて家に迎えられた飼い犬のように周りを緊張の面持ちで見渡していた。
「ほら、こっちに来て。そんな所で立ってても仕方ないよ……そりゃまぁ嫌でも警戒とか、するだろうけどね」
山名と呼ばれていた女先生は白衣からこれまた白い手を出し、自らの頭をポリポリと掻いた。長い髪の毛は雑に後ろで束ねられていて、彼女が動く度にゆらり左右に揺れていた。
「話は聞いてるよ。だから無理して話しかけたり、コミュニケーションを取ったりはしない。これは約束する。勉強する気になれなかったらしなくても良いし、他に生徒が居なかったらそこのベッドで自由に休んでもらっても良い」
そう言って山名は姉弟へ向けて手招きをし、充分に二人が余裕を持って座れる程のソファへと促した。ソファの前には背の低い机もあり、空のコップが二つ並べられているのが見える。
三春は幸生と手を繋いだまま恐る恐る歩き、ソファへと腰掛けた。ベッドであったり様々なものに溢れた保健室だが窮屈さは感じない。窓から暖かな日差しが入ってきて中々に心地良かった。
「そんな格好じゃ暑いでしょ。ほら貸してちょうだい、私の方に掛けとくから。マフラーとかも」
二人がランドセルを机に置いて腰掛けたのを確認してから、山名に促されるままにコートや細々とした防寒具を手渡した。何となく先生らしくない涼し気な喋り口をする人だ、と三春は山名の後ろ姿を目で追いかけた。
山名は喋り口と同様に、涼やかな見た目をした女性だった。細い顔立ちの中に、所狭しと顔の部位が均整を保ったまま並んでいる。二十代半ばから後半といった所だろうか。束ねられた髪がまるで古時計の振り子のように、一歩間に合わせて揺れていた。
幸生の分も合わせて、予備の毛布が入ったクローゼットにコート等を仕舞った山名は、今度は自身のデスク傍に置かれた冷蔵庫を開けた。
「りんごかオレンジならどっちが好き?」
「……りんご。幸生も」
「おっけー」
三春が言うと山名は冷蔵庫の中から一リットルのりんごジュースを取り出し、腕に抱えながら二人の向かいに置かれた一人掛けのソファに勢いよく腰掛けた。
そしてジュースの封を解き、机に置かれたコップへ満々と注ぎ、「ウェルカムドリンクだよ」ニヤリと頬を上げながらそう言った。
三春は暫く黙ってコップを見下ろしていたが、ここまで来るのに少々汗をかき喉が渇いていた事もあってやがて手をつけた。それを待っていたように幸生もコップへと手を伸ばし、喉を鳴らしながら一息に中を飲み干してしまった。
「ぷはぁ……」
「んふふ、美味しい? おかわり入れとくから、好きに飲んでね」
山名は再度コップにジュースを注ぎ、残りの分も二人の手に届きやすい机の上に置いた。そして一度自分のデスクへと戻って、おいしょ。という掛け声一つと共に何かを持ち上げ、二人の方へやってきた。一人掛けのソファに腰掛け、抱えた荷物をコップやジュースに当たらないよう机に並べていく。
「はい、これが二人の勉強道具。各教科のドリルだよ」
「どりる?」
「そう、ドリル。中を開けてみて……そうそう、そんな感じで問題だったり、簡単な解き方とかが書いてあるでしょう?」
「算数」と表紙に書かれたそれを手に取り、中を開けた三春へ山名は顔を寄せた。ほんのりリンゴのような甘い香りが少女の鼻をくすぐった。
山名は次いで首を傾げていた幸生へ出来そう? と問うた。幸生の方には3年生用の簡単な奴が並べられている。少年はそれをジィっと見つめ、やがて頷いてみせると、山名は満足そうに頷いた。
「さっきも言った通り強制じゃないから、暇過ぎてどうしようも無い時とかにやるといいよ」
「……うん、わかった」
弟はそう答えながら国語のドリルを開け、熱心に問題と向き合い始めた。まさか言われた通り保健室のベッドに寝転がる訳にもいかない。三春はあまり広くない部屋の中を何度か見渡し、彼女もまた適当な問題を解き始めた。二人の学校生活はそういった具合に始まっていった。
山名は基本的に放任主義で、必要以上に接しようとしてきたり、ましてやあれこれ詮索してきたりは決してしなかった。その為か、三春は施設にいる時よりも学校で過ごす時間の方が断然楽に思えていた。時折全く勉強と関係ない事を話してきたりしたが、三春がそれに答える事は無かった。気楽な空間ではあったが、それでも彼女が誰かに心を許すような事は無かった。
対して幸生の口数は少しずつ、ゆっくりとしたペースだが着実に増えていった。前述した山名の軽口に返事をするのは幸生の役割と化していた。その上、逆に幸生から山名へ何かを訊ねることもしばしばあった。
保健室登校が始まって数日が経った時だ。窓から差し込んでいた朝日はやがて角度を変え、電灯で部屋の明るさを保つ中、いつも通り姉弟の二人はソファに並んで座り、机に置かれたドリルの問題を睨みながら解いていた。山名は自身のデスクに座り、事務作業をしている。静かな空間だった。耳を澄ませば校庭から体育の声が聞こえてくる程度には、保健室は静寂の中に居た。
「ねぇ先生、ぼくちゃんと勉強できてるかな」
そんな中、唐突に幸生が顔を上げ、ポツリと呟いた。山名もまたそれまで視線を向けていたパソコンの画面から声の方へと移し、小首を傾げて答えた。
「ん? 出来てるでしょ。二人ともやたら真面目に取り組んでるし……私なら絶対サボり倒すよ、そんなの」
「ううん……でも、他の皆はじゅぎょう受けてるのに。良いのかな」
「幸生、そんなの良いからちゃんと勉強して。ほら、そこの答え間違ってるよ」
割り込んだ三春の声はやや苛立ちの色を含んでいた。幸生の解いていた問題を指でとんとんと叩いて示してみせる。しかし弟はいいのかな、と呟くばかりで完全に集中が切れてしまっているようだった。
「幸生ってば!」
「ほらほらお姉ちゃん、怒っちゃダメだよ。ね、二人とも良いタイミングだからちょっと休憩しなさい」
山名に促され、三春は尚も口をむにむにさせながらも手の鉛筆を机に置き、解きかけの問題があるページの端を折ってドリルを閉じた。幸生も同様に鉛筆を置いたが、その横顔は尚も曇って見えた。
「教室で授業受けるなら、私と別々になっちゃうけど。幸生はそれでも良いの?」
「やだ! ううん、それはすごくいやだけど……」
「何よ、ハッキリしてよ!」
「まぁまぁまぁ、落ち着いてよ……そうだなぁ、何か気分転換しよっか」
そう言って山名が二人にそれぞれ手渡したのは真っ白の画用紙、それと色ペンやクレヨンだった。どういう意味かと三春が見上げると、山名は二人が座るソファの肘掛けに腰を下ろし、彼女用のマグカップに口をつけ、中のコーヒーをずずっと音を鳴らして啜った。
「何でも好きな絵を書いていいよ。それ図工の提出物として先生に渡しちゃうから」
「何でもって、何ですか」
「おっ、三春ちゃんが質問なんて珍しいね。何でもは何でもだよ、幸生くんの横顔でも私でも。切れかけのトイレットペーパーでも、好きなのをどうぞ」
山名は半笑いで質問に答えながら、三春の肩をポンと叩きデスクへと戻っていった。残された姉弟は顔を見合せ、何あれまずはつい先程の事を謝りあった。ちゃんと話を聞かなかった事と、強い語気になってしまった事についてだ。喧嘩は良くない。それをコミュニケーションの一環として日常に組み込むと、結果的にどうなるのか姉弟は身に染みて理解していたからだ。
それから二人はそれぞれペンとクレヨンを手に取り、絵を描き始めた。と言っても三春は何を描けばいいのか分からず、何度も画用紙にペンを宙にさまよわせていた。幸生は手にしたクレヨンで女性らしき人を描いていた。きっと母だ。
黄色のエプロンを身につけて、明るく笑っている母の絵を描く弟の横顔はとても真剣な物で、それを覗いた時、三春はふと脳裏に冷たい物を感じた。それは何故か。
今まで幸生が絵を描いている所なんて見た事が無かったせいだろうか、三春は得体の知れない恐怖に襲われていた。咄嗟に弟の手を止めようと、自身の手を伸ばし呼びかけようとした時だ。机の向かい側から、二人の間に割り込むようにしてまた別の手が伸ばされた。
「わぁ、幸生くん上手じゃない!」
「えっ、あ、せんせい」
「これ、お母さん? 凄く良い顔してる」
仕事をしていたはずの山名がいつの間にか真向かいの一人掛けソファに腰掛け、幸生の絵を手に取って喜色を含んだ驚きの声を上げていた。彼女の半開きだった目が開き、キラキラと輝いて見える。またも三春の中にどうにも言い得ぬ嫌な予感が産まれ、動悸が強まっていった。
「ねぇ幸生くん、絵を描くのって好き?」
「こっ、幸生はあんまり絵を描きません。本も読みませんし、外で遊んだりするのが好きです」
三春は咄嗟に口を挟んだ。嘘ではない。前述の通り、幸生が絵を描く所なんて今まで見た事も無かった。あまり家の中で遊ぶようなタイプの子供ではなく、専ら外で走り回っている姿のが似合っている。
「んん、そうなの?」
山名は三春へと視線を向け、再度幸生の方へ戻っていった。幸生は姉が何故か苛立っている事を察知したのか、なんて言えば良いのか分からずオドオドとした様子で視線を辺りに泳がせていた。その態度をどう受け取ったのか、山名はそれ以上言及する事無く「邪魔してごめんね」と言って、幸生に絵を返した。
その日の夜、保護施設の自室へと帰ってきた姉弟は一枚の手紙から母の裁判が着々と進んでいる事を知った。母は自身が旦那を殺害した事を全面的に認め、如何なる処分も受けると言ったらしい。凄惨な事件の中でも時間が解決してくれる事もあるらしく、母の精神状態は幾らか元に戻ってきているらしい。というのも、姉弟が読んでいる手紙は他でもない母が書いた物だったからだ。紛れも無い母の字で、二人とも元気にしてますか? と書いてあるのを見た時、思わず二人とも顔を見合わせて笑みを浮かべ、それから少しばかり目を潤ませた。
日常的な家庭内暴力があったと認められれば、情状酌量の余地ありとして、幾ばくかの減刑も見込めるらしい。一刻も早く母と会いたい、また一緒に生活がしたい。三春は心底そう思った。早くしないと本当に一人になってしまうかもしれない。彼女の心は段々と蠱毒によって苛まれ始めていった。
それから数日もの間、三春は学校に行くのが特別億劫に思えてきた。足が重く、朝起きる度に胸が苦しくなるほどだった。最初は極小さな物だった不安の種は今や巨大に膨れ上がり、彼女の小さな体を食い破らんとするほどに大きく成長していた。
理由は二つある。一つは幸生が絵を描くのに熱を上げ始めた事だ。あの日以来、弟は勉強の合間のような手が空いた時間を絵に費やす事が増えていった。最初こそクレヨンで無造作に落書きめいた年相応の絵を描くばかりだったが、彼はメキメキとその才能を顕わにしていった。
幸生が絵の才能を伸ばしていく最中、三春はようやく自身の胸の中で蠢いていた不安の正体を掴みつつあった。幼い弟が自分を置いて何処か遠くに行ってしまうような気がして、どうにも怖くなってしまっていたのだ。彼が筆を持つ度に腹の底が鋭く痛む程に、強烈な悪感情が少女を蝕んでいた。
二つめの理由は山名だ。彼女の存在は、三春だけでなく弟の幸生をも巻き込んで大きなうねりを創り出していた。というのも父が死に母と別れてから、今まで姉の三春以外に心を許さず、少しでも離れれば泣き喚いていた幸生の心が段々と解かれていき、今では山名や保母に対し薄らと笑顔を見せる姿が見られる程だった。
外部の人間はそれを成長として捉え、幸生を褒めそやし、幸生もまた言葉を受けて喜んでいた。辛い出来事を乗り越え、周りに心を開いていく。何とも喜ばしい光景だったが、ただ一人三春だけは素直に喜べずにいた。彼女自身、まだ誰にも心を許そうとはしていなかったからだ。相も変わらず簡単なコミュニケーションを一切拒否し、山名が話しかけてきても一、二言で会話を途切れさせてしまっていた。
「お姉ちゃん、かけた!」
幸生は絵が出来上がるとまず三春に見せた。鼻を膨らませ目は輝いている、いかにも褒めてほしそうな顔だ。三春は読んでいた本から顔を上げないまま、弟が両手で広げて持った絵をチラリと一瞥した。そしてなんの絵かも判別する間も無く、また本へと視線を戻した。児童文庫の大きな文字すら、今は無機質な形の行列にしか思えない。
「どう?」
「知らない」
冷めた声だった。三春は幸生の描いた絵を褒めた事が一度も無く、いつもこうした淡白な感想で済ませてしまう。彼女は本を閉じて自身のベッドに置き、代わりに赤のランドセルを手に取った。もうすぐ登校の時間になる。中に給食用のお箸やらが入っている事を再度確認し、背中へと回した。
「学校遅れるよ」
「……うん」
褒めて貰えず悲しそうに俯く弟を促し、二人は施設を出た。相変わらず外では手を繋いだままだった。初めの数日はいつもの保母、彼女が学校までついて来ていたが、今では二人だけで登校している。おかげで道中は静かなものだった。同じような見た目の家が建ち並ぶ道の端を歩き、時折公園などで登校班の集合を待つ様々な学年の生徒たちを横目に、二人はポツポツと進んで行った。見るものに欠ける、実に単調な道だ。
幸生が絵を描くようになってから徐々に姉弟の間から会話が減っていった。ほんの少しだけ距離を取っているだけ、三春は自分にそう言い聞かせていたが、今この瞬間にも弟の心が自分から離れてしまいそうで、繋いでる手がふとした瞬間に離れてしまいそうで、横断歩道を渡り学校が見え始めたこの瞬間も胸の中は不安でいっぱいだった。
「せんせーおはよう」
「はいおはよう。今日もいい天気だねぇ……」
保健室に入ると、山名はいつも通り綺麗な白衣を身にまとい、コップに並々と注がれたコーヒーに口をつけていた。こっ、こっ、と喉を鳴らし、湯気の立つコーヒーを勢いよく飲み干していく。前に幸生が熱くないのか、と訊ねると「まぁまぁ」と答えていた。相変わらず変な先生だ。普段からそういった雑な飲み方をしている癖に、白衣に染みが出来ていないのも不思議な話だ。三春は見る度に気になったが、声にして疑問を唱える気にはなれなかった。
「せんせ、あれ何?」
三春がソファにランドセルを置いた時だ。同様に隣に黒いランドセルを置いていた幸生がふと顔を山名の方へ向け、何かを指さしながら訊ねた。三春がそちらに顔を向けると、そこには保健室のベッド上に何か大小異なるダンボールが二つ積まれていた。
「あぁ、これね。私からのプレゼント。開けてみて」
山名の言葉を聞くや否や、幸生はダンボールに飛びついてガムテープを何とか引っ張って剥がし、中の物を取り出した。それは木で出来た折り畳みのスタンド……いわゆる絵画スタンド、という物のようだった。普通は図工室や、美術室に置いてあるような代物で、保健室の雰囲気にはどうにもあっていなかった。次いで幸生は真白なキャンバスも数枚取り出し、ベッドの上に並べて置いた。
弟はまるで宝物でも見つけたかのように、顔を上気させながら、ゆっくりと山名の方へ視線を移した。その様をソファの肘掛けに腰を下ろしながら見つめていた山名は机にコップを置き、幸生に向けて親指を上へと立てた。
「もう一つには基本的な画材が入ってるんだ。んふふ、大事に使ってね」
「い、いいの……?」
「良いよ、プレゼントだもん。一応学校の備品って扱いだから、大事にしてよね?」
「うん、うん! ありがとう、せんせ!」
幸生は喜んでいた、大層喜んでいた。両親に誕生日プレゼントで新しい靴を買って貰った時や、姉の三春と公園で遊んでいる時と同じくらい明るい笑顔をしていた。声色も今日の朝空と同じくらいに晴れやかなものだった。それがどうにも三春は許せなかった。彼女はソファに座り持ってきた本を開け、内容に集中しようと必死に文字列を目で追ったが、やたらと目が滑る。まるで集中出来ない。
結局三春は、その日初めて保健室のベッドを使い、幸生や山名の姿が見えないようカーテンをし、一人目を瞑った。せめて夢の中に逃げ込もうと頭まで毛布を被り、枕に顔を埋めた。もしかしたら寝て覚めたら家の布団かもしれない。これは全部夢で、お母さんが起こしに来るかもしれない。お父さんが今までの事を全部謝り、全部許して、それからまた平和な生活が始まるかもしれない。
「せんせー、これ。朝かいたんだ」
「ほうほうこれは鳩で、こっちはカラス……幸生くん、空見るの好きなんだ? 良く見て描けてる。良い絵」
「へへ、ありがと。でもお姉ちゃんには知らない、って言われちゃったんだ。お姉ちゃん、空好きじゃないのかなぁ」
「うぅん……空の面白さを「知らない」んじゃないかな。私も本を読んでる時とか仕事してる時とかは外が晴れか雨かも分からないしね」
違う、知らないのは幸生は空が好きという事。それだけだ。三春はそれ以上何も聞かないよう毛布で耳を塞いだ。様々な事が脳内を飛び交い、まるで眠る事は出来なかったが、給食の時間までそうしていて、食べたらまたすぐにベッドへと戻った。
夕方になって学校も終わり、下校の為に保健室を出る頃には、三春の髪はぐちゃぐちゃに荒れていた。半日横になっていたのだからそれも仕方ない。
「お姉ちゃん、ねぇ。お姉ちゃんってば」
「……」
幸生はランドセルの他に山名から貰った大量の画材を両腕に抱えていた。細かな絵の具なんかはランドセルの隙間に詰め込む事が出来たが、大きなキャンバスやスタンドはそうもいかない。腕を震わせながら苦しそうに歩く弟の姿に、三春はスタンドの方を無言で引ったくり、弟が居る方とは逆の肩に掛けた。空いた手はお互いの手に握られた。
「ねぇお姉ちゃん、大丈夫? 今日しんどかったの?」
「……んーん、大丈夫。何でもないよ、ちょっと眠かっただけ」
「そっかぁ。あのね、今日も絵をかいたんだ。せんせいいっぱい褒めてくれたよ!」
「そう」
良かったね、と呟きながら三春は赤オレンジ色の夕空を見上げた。日は建物の向こうに姿を消していき、反対側の空は夜の黒さを帯びてきている。月の姿もぼんやり見え始めていた。
こうして空を見るのはいつぶりだろう。いつも幸生が見上げている時、自分は何を見ていたのだろう。三春はぼんやりとそんな事を考えながら、二人だけの帰路を歩いていった。
幸生はその日から更に絵を描くことにのめり込んでいった。瞬きすら忘れ、目が乾くことすら気にせず一心不乱に筆を振るう。キャンバスでは無く、画用紙を木製スタンドに貼り付けて不規則にも見える規則に沿って塗りたくる。それまで自室では母の事や、学校の事で会話に溢れていた空間に三春にとって居心地の悪い静寂が流れ始めていた。
「幸生、お風呂」
「ぼく一人で入るから、お姉ちゃん先行っていいよ」
「………………そっ、か」
寝食は勿論、毎日欠かさず二人で入っていたお風呂も遂にはそれぞれ別になってしまい、これを切っ掛けに姉弟の時間はゆっくりと、しかし確実にズレだした。学校が休みの日も幸生は変わらず絵に向き合い、顔を中々合わせない時間も増える。三春は逃げ場の無い孤独に頭を悩ませ、読書で気を紛らわそうにもどうにもならなくなっていた。
仮に呼び掛けても生返事ばかりで会話にもならない。食事の時間、果てには夜、三春が寝付く時間になってもまだ筆を持ち続ける弟の姿に彼女はとうとう我慢ならなくなり、ある一つの手段を取る事を決めた。
「……」
今、幸生は施設内にある共用のお風呂に行っているので部屋には三春しか居ない。部屋の外は相変わらずドタドタと他の子供たちが走っている音がするが、中に入ってくる気配もない。
そして彼女の眼前にはスタンドに掛けられた一枚の画用紙がある。描きかけの幸生の絵だ。これは校庭から見た学校の風景を描いているのか、放課後になり沢山の子供たちが門限になるまで全力で遊ぶ奔放な姿が描かれていた。夕日の赤さはつい先日、学校の帰り道に見上げたそれと一緒だった。
三春はおもむろに画用紙をスタンドから剥がし、両手に取った。そしてマジマジと弟の描きっぷりを眺め……一息に上下へと裂いた。ビィッ、とそれなりに大きな音がし、生乾きだった絵の具の臭いが鼻をついた。三春は部屋の窓を開け二枚になった絵をそこから放り捨て、施設内の中庭に落ちた事を確認してから窓を閉めた。そして部屋を出てトイレがてら手を洗い、何事も無かったかのように自分のベッドへと潜り込んだ。枕元には明日の朝、母へと送る手紙が置いてある。いつもと同じような、自分たちは元気だよ。お母さんは元気? という他愛ない内容の手紙だ。
幸生がお風呂から部屋へと帰ってきたのはそれからすぐの事だった。上下青色のパジャマに身を包み、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら部屋へ入ってきた彼は、すぐに部屋の異変に気がついた。
「あれ、絵がない……」
弟の呟きに、三春は寝返りをうった。壁へ顔を向けて、起きているのが気取られないよう息を潜めた。幸生はその間も部屋の中を探し回り、絵の在処を突き止めようとしたがいよいよ見つからず、濡れタオルを床に放っぽいて再び部屋を出ていった。
結局、職員らの捜索によって絵は見つかった。まず第一に三春が嫌疑を掛けられたが、それを否定したのは弟の幸生だった。彼は「お姉ちゃんがそんな事するはずない」と姉を庇い、大事にする程でも無いと判断されたこの出来事は、単なる一過性のものとして数日もしない内に忘れ去られてしまった。
しかし三春はまたも奇行に走った。今度は幸生の画材を隠し、職員や保母に聞かれてもいつもの四段活用でシラを切り続けた。幸生は尚も三春を庇ったが、誰がどう見ても彼女の犯行であることは明らかだった。
「ねぇ三春ちゃん、なんで幸生くんの絵の具を隠したりしちゃったの?」
そうしつこく訊ねてくるのはやはりいつもの保母だった。名前は香というらしい。最近幸生との会話の中で頻繁にその名前が出てくるせいで、ようやく三春もやたらと顔を突き合わせる事の多い彼女の名前を覚えることが出来た。
時刻は夜の八時頃、生活リズムのズレた幸生とは別に一人で晩御飯を食べ、お風呂を済ませてから半ば無理やり部屋へと引っ張られていった。二人を挟んで置かれている背の低い丸机にはホットミルクと幾つかのお菓子が置かれている。最も、誰も手をつけようとはしないが。
「何でもいいでしょ、放っといてよ」
「うぅん、でもねぇ放っとけないわよ。三春ちゃんもきっと目の前にこんな辛そうな顔をした子がいたら絶対放っておけない。三春ちゃん優しい子だからね」
「私の事なんか何も知らないでしょ?」
二人は香の住む社宅の一室に向き合って座っている。フローリングの代わりに八畳ほどの部屋には、草の匂いがする青畳が敷かれていて、肌を晒しているふくらはぎの辺りが触れると少しこそばゆい。
「……最近ね、幸生くんと沢山お喋りするの。他愛ない話よ? 今日の晩御飯は残さなかったとか、宿題が難しいとか……貴女の事も話すわ。良いお姉ちゃんだって、いっぱい教えてくれた」
幸生が人懐こい笑みを浮かべ、嬉しそうに喋る様が脳裏に浮かぶ。自分や家族にしか見せないと思っていた明るい顔だ。それからも香は三春に様々な事を喋りかけたが、三春は「力になりたい」や「貴女のために」という香の言葉がどうにも中身の無い、薄っぺらな物に思え、聞いた声がそのまま反対の耳から抜けていくような感覚を抱いた。
部屋に戻り、いつも通り絵に向き合う幸生の隣を通り過ぎてベッドに潜り込む。何て事は無い、ここ数日で出来上がった実に静かな夜だった。
三春が胸に空虚な思いを抱くのと比例するように、小学校内でも幸生の絵の才能は広く知れ渡り始めた。最初は時折図工の先生が保健室へと訪れてはうんうんと頷くだけだったのだが、段々とその頻度は上がっていき、終いには校長や教頭まで引き連れては幸生の後ろに並び、彼の筆運びを感嘆の吐息をもって讃えるに至った。
そしてとうとう、校長が幸生に「コンクールに出してみないか?」と聞いた時は、すぐ隣にいた三春は思わず視界を眩ませ、読んでいた本から目を落として両方の瞼を手で押えた。そんな彼女の異変に気づく様子もなく大人たちは大いに盛り上がり、幸生もまた満更でも無さそうに笑い、コンクールについての話をし始めていた。いよいよ弟が自分の手を離しそうに思えた三春は、学校を終えて施設の部屋へ入るや否や弟に対して久しぶりにまともに口を開いた。
「幸生、コンクールの事なんだけど」
「うん! ぼくもお姉ちゃんに言いたかったんだ。ぼくね、コンクール出そうと思うんだ。あんまり自信ないけど、やったみたくって――」
幸生はそこで一度言葉を切った。自分のベッドにランドセルを放り投げ、姉の方を振り返った瞬間思わず口を閉ざしてしまったからだ。
姉は、三春は見た事も無い顔をしていた。それこそ人を殺してしまいそうな程の怒りの表情だ。今にも血が噴き出そうなほど唇を強く噛み付け、弟の事を睨みつけている。
「ダメ、ダメだよ幸生。これ以上他の人に近付いたり、喋ったりしたら。だってどれだけ仲良くなったって、結婚したって殺してくるかもしれないんだよ? お母さんがお父さんを包丁で刺したみたいに。私以外信じちゃダメなんだよ……分かる? 分かるよね? 幸生は賢いもんね、私の弟だもんね」
三春は幸生の細い両肩を掴み揺らした。真近から顔を見据えると、幸生は怯えているのか視線が細かく震えていた。
「お姉ちゃん……」
「山名先生も、保母のおばさんも。みんなみんな今はニコニコしてるけど、何かの拍子におかしくなって、傷付けてくるかもしれないんだよ? そう、そうだよ幸生が傷付くかもしれない。絶対辛い思いをする、だから」
「おかしいのはお姉ちゃんだよ」
今度は幸生が三春の言葉を遮る番だった。どんどんと語気を荒め、眼前の弟にというよりは自分自身にそう言い聞かせるようにまくし立てていた三春は、開けた口を閉じて激しく歯軋りし、幸生の肩を掴む手に力を込めてそのままベッドへと仰向けに押し倒した。
しかし幸生が気圧されることはなく、逆に姉の腕を掴み返し、引き剥がそうと力を込めた。それが三春の知る幸生よりもずっと力強く、表情も自分の後ろをただついてきた時とは違う逞しいもので、思わず面食らわされた。
「お、お姉ちゃん……お姉ちゃんが言ってるより、皆良い人だよ。優しくて、面白くて……ぼくね、ここに来れて良かったって思ってるんだ。だから絵を描くのも、皆に良かったって思って欲しくて……」
「うるさい! アンタは、アンタは黙って私についてきたらいいの! 口答えなんてしないで!」
「やだ!」
睨み合う姉弟二人の額がかち合う程に距離が縮まったその時だ。部屋のドアが勢いよく開かれた。
「二人とも何やってるの!」
ドアの向こうから現れたのは香だった。尚も取っ組み合いを続ける二人の間に割り込み、難無く引き離された。太くて力強い大人の腕力に適うはずも無く、三春はやがて諦めて振り上げていた両腕を力無く下ろし、一つ大きな溜め息をついた。いきり立った感情の残滓を全て込めたような特大の溜め息だった。
「もう、好きにして」
三春の何処へともない呟きをもってして、過去最大にしてたった一度の姉弟喧嘩はあっという間に終わりを告げた。
この日以来、姉弟はより一層距離を置くようになり、会話は殆ど無いに等しい。不意に視線を合わせては気まずさに負けてどちらともなく空へと外してしまう。
三春がもう幸生の邪魔をする事は無くなったが、そのせいもあってより人と関わる時間が減り、香や職員、施設の子供ですら心配するほどに彼女は塞ぎ込み始め、段々と学校へ行く事を拒否し始めるに至ってしまった。いわゆる不登校だ。
元々の事情があるので、誰も三春に登校を強制する事は出来ず、朝になると幸生だけがベッドから起き上がり学校へと向かう光景が当たり前となっていった。学生たちが一通り学校へ行き、施設がガランと静かになるとようやく三春も起き出し、朝食を食べにパジャマのまま食堂へと姿を見せる。
それを見計らって香も食堂の一席、三春のすぐ隣か真向かいに腰掛けて一緒に食事を摂っていた。どれだけ三春が嫌がろうとも、少なくとも部屋の外だけでも一人にはさせないよう、香はいつものように丸い顔いっぱいに笑みをたたえ、色んな話題を三春へと振った。何一つとしてまともに三春の耳へ入る事は無かったが。
それから実に二ヶ月が経った頃、幸生の絵が完成した。三春は相変わらず弟の描いた絵を目に入れないよう努め、幸生もまた自分の描いた絵を姉に「みて!」と言う事も無かった。そのせいで三春は弟が何を題材に選んだのかを知らないまま絵は学校へ、そしてコンクールへと送られていった。
とっくに梅雨も開け、夏休みに入ろうかという季節になると、幸生は保健室登校から教室での授業へと移る事が決まり、施設の子供らがクラスに居た事もあり、すんなりとクラスに馴染んでしまった。
友達もでき、毎日下校時間ギリギリまでグラウンドで遊び回り、施設に帰ってきても部屋には入らず廊下やまた別の部屋で遅くまで遊んだり、宿題をしている。幸生は以前にも増してよく笑うようになった。
三春はまるで笑わなくなった。本もあまり読まなくなり、ただぼうっとベッドに寝転がって天井を見上げ、たまに寝返りをうつばかり。寝ても醒めても部屋には一人、自分だけしか居ない。それを確認してまた目を瞑る。そんな日々が延々と続いた。
幸生の描いた絵がコンクールで受賞した事を知った日、三春は珍しく自主的に外へ出る事を決めた。
「二人とも準備出来てる? そろそろ行くわよぉ」
「はーい」
行き先はコンクールの絵が飾られた美術展。そこで幸生の授賞式も行われると聞き、三春は久しぶりに外服の袖に腕を通した。蝉の鳴き始めによく似合う白のキッズワンピースに黒のプリーツ。母が昔誕生日に買ってくれた思い出の服だった。
件の幸生もまた、外行きの格好をしていた。とは言っても三春程に気合いの入った服装では無く、ほぼいつも通りのTシャツに短パン。素面の父が居たら「絵に書いたような小学生男子だな」と笑いそうな見た目だ。髪の毛だけは香の手で短く整えられていて、寝癖も一つとして無い。
「あ、あのねお姉ちゃ、ん……いや、やっぱいい。なんでもない」
「なに? なんかあるなら言ってよ」
「ううん、なんでもない。気にしないで」
「ふぅん、へんなの」
香が車を運転する道中、最近だと珍しくなった姉弟の会話もありつつ、比較的和やかな雰囲気で時間は過ぎていった。美術展を行っているデパートの一角に辿り着くと、先にやってきていたらしい幸生の友達らがあっという間に彼を取り囲んでしまった。
為す術もなく弾き出された三春は、そのまま香と一緒に少し離れた隅に立ち、遅々としたペースで進んでいく授賞式をぼんやりと眺めていた。
幸生が描いたのは「空」だった。いつか見たそれと変わらない、見事な夕焼け空だった。だけど、ただ赤色や黄色、雲の白だけでは無い、様々な絵の具を混ぜて彩られた空。ただ一枚の絵といえばそうだが、三春にはどうにもそこから幸生の思いや、考えが薄らと覗き見えるような気がした。
「それでは次に優秀賞の賞状授与に移ります……――幸生くん。前へどうぞ」
「はいっ」
幸生の名前が呼ばれた瞬間、三春は思わずビクリと身を怯ませてしまった。司会の男性の声が大きかったのもあるが、幸生が指定の席から立ち上がった時の凛々しさもまた、三春を驚かせた。
喧嘩した時の腕力もそうだが、知らぬ間に随分と成長してしまった。ただ小さな自分みたいで、ポテポテと後をついてくるだけの可愛い生き物のような弟はもうそこには居ない。居るのは一人の立派な少年。
父の死や母との別れ。過去の呪縛からいつまでも動けない自分を置いて、弟はいつの間にか手の届かない遥か遠くまで行ってしまったらしい。三春は自虐的に頬を吊り上げ、一人俯いた。隣の香は感極まって涙を流しながら激しく拍手している。腕まで真っ赤になるほどにパチパチと、パチパチと。
そうして三春もまた、涙を流すのであった。
夜が来て、朝になった。アラームも無しにいつも決まった時間に起き出す幸生は、今日も学校の為に朝七時前にはベッドから起き上がり、大きく伸びをした。そしてふともう一つのベッド、姉用のベッドの方へ顔を向けた。いつもなら頭まで布団を被り表情すら見せてくれない。少し前まで自分がうなされている時や、何かと理由をつけては添い寝をしてくれたというのに、何時しか随分姉と距離を感じるようになってしまった。
幸生は乱雑に置かれた姉の掛け布団を持ち上げ、キチンと体に掛け直してやろうとした。その時だ。
「あれ、いない……」
姉の姿が無かった。大人が寝転がっても充分に余裕のある大きさのベッドには、何処にも姉の姿が無かった。
「トイレかなぁ?」
自分でそう呟きつつも、何処か嫌な予感がした。わざと言葉にしたのはそんな不安を掻き消す為だった。しかしドンドンと胸に湧いた不安は膨らんでいき、幸生は掛け布団をベッドに投げ捨て、部屋から勢いよく飛び出した。
トイレ、食堂、お風呂。姉が行きそうな所を一通り巡り、また自分たちの部屋へと戻ってきた。姉は居ない。施設内を走り回ったせいで息を荒らげながら、幸生の脳内に一つの可能性が生まれた。考えたくもない、最悪の可能性だ。
それを否定する為に、幸生は玄関にある靴箱へと向かった。子供たちや職員、保母のおばさん達に至るまで施設に居る人間は皆ここに靴を置いている。
木で出来た靴箱の枠にはそれぞれ名前付きのシールが貼られており、一目で誰のものか分かるようになっている。幸生は自分のすぐ隣、姉の靴が入っている棚に目をやり、そして言葉を失った。すっかり思考を侵食していた嫌な予感が、ゆっくりと現実味を帯び始めていた。
「香さん! 香さん!」
「わっ、わっ。どうしたの幸生くん。こんな朝っぱらから随分と元気だけど、良い夢でも見れたの?」
「ちが、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……」
廊下に香の姿を見つけるや否や、飛びつくようにして彼女へ走り寄った幸生は息も絶え絶えに状況を伝えた。小学生男子の語彙や、幸生が混乱している事もあり意思の疎通は簡単な事ではなく、およそ十分程かかってから、香は血相を変え、みるみる青白くなっていった。
「け、警察! 警察呼ばなくちゃ……幸生くん。貴方はここに居るのよ? もちろん学校でも良いけど」
「僕もお姉ちゃんさがしたい!」
「ダメよ。子供がどうこうするような事じゃないわ。警察に任せるのが一番よ、えぇ」
「やだ! ぼく弟だもん!」
そう言ったっきり、幸生は泣きに泣き始めた。声を隠しもしない大泣きだ。朝も早いと言うのにみるみる人集りができ、集まってきた職員らに香が話をし、すぐに警察が呼ばれることになった。
三春が見つかったのはそれから三時間ほど経ってからだった。幸生の予感は、当たっていた。
「川下で姿を確認した時点で……もう」
警察の一人は目を伏して、首を横に振った。大人たちは尚も各所で話をしていたが、そのどれも幸生の耳に届く事は無かった。三春は死んでいたのだ。
まず始めに近くの橋で靴と手紙が見つかった。遺体があったのはそこから隣町、元々姉弟が住んでいた川下付近の町だった。死因は外傷性ショック死。
状況から見て自殺が濃厚だと警察は説明していた。職員らも幸生の反応を見ながら言葉を選び、極力傷つけないよう細心の注意を払いながら教えてくれた。手紙の内容もその一つだ。
『勝手でごめん』
父を殺した母が言ったものと同じ言葉が、たった一言だけ、間違いなく三春の字で書かれていた。これから死ぬとは思えないほど、綺麗で落ち着いた文字だった。
三春の自殺を知った母は大いに悲しんだ。面会に来ていた幸生の姿が見えなくなる程に涙を流し、なんで。なんで。と叫び散らしていた。監視員に止められても尚伸びきった髪を振り乱しながら荒れる様は、まるでそこらに彷徨う幽鬼のようでどうにも見るに堪えなかった。
「僕はね、たったひと言だけで良いから姉に褒めて欲しかったんだ。凄いね、頑張ったね。って」
幸生は煙草の吸殻を灰皿に落としながら続けた。
「母もショックのあまり精神疾患を患ってしまったし、本当に辛かったよ。こうして「辛い」なんて言葉で済ますには割に合わない程、重く暗い日々が続いた」
「では、もう?」
「あぁうん、つい先日解決したんだ。納得のいく絵が描けて、眼前の暗雲が一息に晴れた気持ちだよ」
あれだ、ソファに深く腰掛けた幸生は煙草をにじって火を消し、空いた手で壁を指さした。そこにな一枚の絵が掛かっていた。
四十手前になった幸生は、自身の過去から「悲劇の絵画氏」として画家人生を歩み、それなりに世間でも名が知られる程になった。悪くない、充実した生活を遅れる程度には金や名声を得て、しかし幸生は子供の頃のように笑う事は無くなってしまっていた。
何処へともなく影の差した表情を浮かべ、形を変えながら空に流れゆく雲をぼんやりと見つめている。今もそうだ。彼の描いた絵を見て、無機質な褒め言葉を投げてくるインタビュアーをまるで無視し、ただ窓の向こうに延々と広がる空を見つめていた。
幸生の遺体が見つかったのはそれから数時間経ってからの事だった。姉と同じ場所、同じ死に姿をしていた。頭から脳漿をぶちまけ、大量の血を流してうつ伏せに倒れた状態で川に流されていた。
そして姉と同じように、施設近くの橋にはまた彼の履いていた靴と一枚の手紙が残されていた。内容はこうだ。
「私の描いた絵で発生したお金は全て母の医療費に充てて下さい。僕が死んだ事は母には伝えないで。そして、今日自宅に訪れたインタビュアーに伝え忘れたのですが、私の最後の絵の題材は「平凡な家族愛」です。それを知った所で貴方の感想は変わらないかもしれませんが、私が何を思い何を込めてあの絵を描いたのか、上面の褒め言葉を並べるのではなく少しばかり頭を悩ませながら雑誌を作って下さい。よろしくお願いします」
……とまぁ、そんな具合だった。ガランと静けさだけが残されたままの幸生の自宅には、ただ一枚壁に掛けられていた。
何処にでもいる両親と姉弟が家の中で仲良く笑いあっている、クレヨンで描かれたなんて事ない平凡な絵が。おわり