94 ビスケットと足の裏
「アデライーデ様…。あの子達をどうされるのですか?」
帰りの馬車の中でマリアが心配そうに、アデライーデに尋ねた。
「あの子達?」
「えぇ、離宮でお雇いになるのですか?」
「ううん、雇うわけではないわ」
子どもを働かせるなんて陽子さんの考えの中にはない。
「まずは生活習慣を覚えてもらって、生きていく術を身につけてもらってから…それからよ」
アデライーデはレイナードにメーアブルクの子供たちの話を聞かせてもらった。
裕福な家の子は、家庭教師をつけて12歳くらいまで読み書きと算術を習い優秀な子は王都の学校に3年通って下級文官になると言う。そうでない場合は家業の手伝いからはじめ、大体18くらいで1人前となり家業を継いだり暖簾分けしてもらって一人立ちしたり女の子であれば結婚したりするという。
小さな商店や漁師、農家の子は7.8才くらいから家の手伝いをしリトルスクールに時々通いながら12才から15才くらいで1人前になるらしい。
--日本も80年くらい前は同じように尋常小学校を出たら働いていたし、私が生まれた頃中学を出て働く人達が金の卵と言われていたって言うからそれに近いのかもね。
--それにしても、ホームレスって言われる人も昔はよく見かけていたけど、私も浮浪児って初めてみたわ…。
陽子さんが今でも覚えている事がある。
子供の頃、商店街に住んでいたホームレスのおじさんがいた。おじさんはいつもあちこちの飲食店のゴミ捨て場の掃除をしていた。きれいに掃除をすると店の人から残り物の食べ物や着古した服を貰えるのだ。
大きな料亭の敷地の端に青い錆びたトタン屋根と窓のないブロックでできた物置き小屋に住んでいたおばあさんもいた。暑い夏に涼を取るためかボロボロの木の扉が開けられていて、小屋の半分にビール瓶ケースが敷き詰められその上に板が置かれて薄い布団が畳まれていた。土間にはちいさな七輪が2つあったのを見た事ある。
それは…世がバブルと言われていた頃の話だ。
--日本でもそうだったんだもの。社会保障のないこの世界では孤児院だけが子供たちのセーフティネットなのね…
この世界では、孤児院は教会の運営だが運営費は限られている。貴族女性は自領の孤児院に寄付をしたり顔を出してバザーを開いて慈善を施すのだ。
メーアブルクは国の直轄地なので、アデライーデが寄付をすることは構わないだろうがアルヘルムに話をしておく方が良いだろうと考えていると馬車は離宮についたようだ。
「お帰りなさいませ」
レナードが馬車から降りるアデライーデを出迎えた。
「ただいま、レナード」
「メーアブルクではお楽しみになりましたか?」
「えぇ…そうね」
「アデライーデ様、あちらは?」
驚いていただろうが、流石に執事のレナードは顔色を変えずに荷馬車から降りてくる子供たちを見ながらアデライーデに問いかける。
「メーアブルクの市場で会ってね…それで…孤児院はいっぱいだったから連れて帰って来たの」
「つまり、拾ったと?」
「えぇ、まぁ……」
レナードは表情を変えずにアデライーデを見ている。
--まさか、元の場所に戻してこいなんて言わないわよね…
ドキドキしながら、レナードの返事を待っているとレナードは子供たちを見て従僕を目で呼んだ。
ちびちびはお腹がいっぱいになって眠くなったのか、にーちゃの背中で寝ていた。他の子は見たことも無い離宮の立派さに驚いて固まってこちらを見ている。
にーちゃは、ちびちびを背負ったまま急いでレナードに近寄って膝をついた。
「旦那様、俺何でもします!言われた事なら何でもします!こいつらの分も働きます!ちゃんとしますからここで雇ってください!」
にーちゃは、レナードをこの見たこともない立派な屋敷の主と思ったのだろう。娘が屋敷に連れてきたが、レナードが呼んだ従僕に追い出されると必死になって懇願していた。
「……まずは風呂を使わせ、身奇麗にさせましょう」
「レナード!ありがとう!」
--良かった!
ホッと胸を撫でおろして着替えに部屋に戻ろうとするアデライーデにレナードが声をかけた。
「アデライーデ様、居間にお茶のご用意をいたします」
「はい?」
「居間で、お茶を、されますね? お着替えのあとに」
にっこりと笑うレナードに、これから始まるなにかを察したアデライーデは、引きつりながらも「はい…」と答えた。
子供たちは従僕に連れられ洗濯小屋にやってきた。従僕は洗濯を担当しているおばさんに、ここでこの子達を洗って欲しいと頼みにやってきたのだ。
子供達は汚れすぎていて、レナードから離宮の使用人用のお風呂場ではなく外で一同を洗うようにと指示されていた。
「なんであたしが? あたしが洗うのは布専門だよ!」
「レナード様からの指示なんだよ。この子達を洗濯しろって、洗濯ならおばさんじゃないか」
「はん!どうせ、あんたが洗えって言われたんだろ?何処だい?レナード様は?使用人部屋かい?」
「わーーっ!わかったよ。試作のデザートもらってくるよ。だから頼むよ」
このおばさんはレナードより長くこの離宮に夫婦で勤めている。
そう、彼女はこの離宮のお局様なのだ。仕事を押し付けようなんてしようものなら返り討ちにあう。
「5日分だよ」
「なんだよ。それ!」
「あんたは数が数えられないのかい?5人いるだろ!嫌なら…」
「わかったよ!………、…ちぇっ 意地汚ねぇ」
「なんか言ったかい?」
「いや。何も! じゃ、よろし…」
そう言いかけて立ち去ろうとした瞬間、襟元をむんずと掴まれた。
「どこ行くんだい!」
「え?仕事に戻るんだけど」
「何言ってんだい!あたしが受けたのはこの子たちを洗う事だけだよ」
「は?」
「お湯を沸かしな!」
「えぇー!」
ほら、返り討ちにあった。
小屋の脇の竈に煮洗い用の大きな釜が持ち出され、洗濯小屋の井戸から侍従が何度も水を汲んでたっぷりの湯が沸かされた。
「髪はダメだね。櫛が通らないよ。シラミもいるだろうし切るしかないね」長い間一度も梳かれたことのない髪は猫の毛玉の様に絡まり、ゴミや砂を孕んでいる。
おばさんは洗濯小屋からハサミを持ち出すと、子供たち全員の髪を切った。「動くんじゃないよ、頭が切れちまう」そう言って最後は大きなカミソリでくりくり坊主にした。
順番に着ていたボロを脱がされて大きなタライに入れられ、おばさんがゴシゴシ洗うがまともにお風呂に入ったことがないようで、何度もお湯を換えて体を洗われた。
おばさんがきれいになったと思うまでゴシゴシ洗われると隣のタライに移され、ハーブ園から毟ってきたローズマリーとミントをすりこ木で擦ったものを子供たちの頭にすり込むと蒸しタオルを頭に巻いた。温かいのにスースーする不思議な感じだ。
「タオルを取るんじゃないよ!いいと言うまで巻いときな。毎日こうやってれば1月もすればシラミはいなくなっちまう」
最後にぐっすり眠ってしまっているちびちびのボロを剥がすと、おばさんは険しい顔をして寝たままのちびちびをタライに入れ、時間をかけて優しく洗い始めた。
「あんた達、メーアブルクにいたのかい?」
「うん」
「街にはあんた達みたいな子は、今どんくらいいるんだい?」
「わからないけどだいぶ少なくなった」
「……船が来たのかい?」
「うん。大きな奴らは船に乗って行った。小さいのは冬にほとんど死んだ。小さいのはちびとちびちびだけだ」
「……そうかい」
おばさんは木の棒の様なちびちびの足を洗っていた。足の裏はどの子も固く黒い。体はアバラが浮いてお腹だけぽっこり出ている。子供らしいぷくぷくとしたところはない体をおばさんは洗うと、タオルに包んでベンチに寝かせ蒸しタオルを巻いた。
洗濯小屋からもう着なくなった侍従の古いシャツを持ってくると子ども達に着せ、へばっている侍従を蹴飛ばし「釜とタライを片づけな」と言って追い立てると握りこぶしくらいのビスケットを1枚ずつ子供たちに渡した。
「大人しくしていた褒美だよ」
「…ありがと」「あり…」「ありあと」「ありがとうございます」
それぞれにお礼を言うのを聞いておばさんはどっかりとベンチに座った。
おばさんは、でっぷりと太った体をねじってベンチの横の籠から木のパイプを取り出すと一服つけた。
「あんた達は運がいい。船に乗る前にここに来れたんだ」
「………」
「ここはどこ?」
「先王様の離宮…いや、今は正妃様の離宮だよ」
「せいひ様? りきゅう?」
「この国の王様の奥様の住む家だよ」
おばさんは、タバコの煙をふーっと、吐き出した。




