90 来ちゃった
「アデライーデ様!」
マリアと日課の散歩中に、遠くから馬の足音と共にアデライーデを呼ぶ声が聞こえた。
「フィリップ様!」
フィリップは馬を駆けながら、アデライーデに大きく手を振りこちらに向かってくる。単騎で駆け寄ると、アデライーデのそばに降りた。はぁはぁと息を弾ませ笑顔をはじけさせている。
「お久しぶりです!お元気でしたか?」
「ええ。どうされたのですか?お一人?」
フィリップが1人城を抜け出してきたのかと心配していると「いいえ、ちゃんと先生もいます」フィリップが指差す先に、遅れて一人の騎士が馬を駆けて来るのが見えた。
「今日は遠乗りをしようとのことだったので、ここに来ました」
「まぁ…、ここまで?すごいですわ」
1ヶ月先なんて待てなかった、お会いしたかったんです…とフィリップは思ったが、口に出す前に鼻息の荒い馬がフィリップの馬の隣に駆け込んできた。
追いついた騎士はアデライーデ達のそばに馬をとめると、息を整えアデライーデに騎士の挨拶をした。
「正妃様、突然の訪問を失礼いたします。私はフィリップ様の剣術と乗馬の指導を仰せつかっているギュンター・マルツァーンと申します」
「アデライーデです。よろしくね。今日は遠乗りのお稽古なの?」
「……えぇ。まぁ…そうですね」
歯切れの悪い返事をギュンターはした。
本当は城の近くの森を一周しようとしたが、フィリップに「(近くの森に)今日は遠乗りを…」といった瞬間、「では、湖畔の離宮に行きましょう!」と駆け出されてしまったのだ。
フィリップは、追いつかれたら止められるとわかっていて教わったことすべての技術で馬を駆けた。
騎乗者の体重が軽いほど馬は早く駆けることができる。駆足で30分かからない距離の離宮までフィリップの体重の倍はあるギュンターは追いつけなかったのだ。
--熱心な練習の成果が逃走とは…。向かった先が離宮で良かった。
ギュンターは苦笑いをするしかなかった。
1人で抜け出してきたのではないとホッとしたアデライーデはフィリップ達を村に誘った。
「喉が乾いたでしょう?村の宿屋で何か飲みましょうか?」
「村で?!」
フィリップは、まだ城や友人の家のお茶会でしかお茶をしたことがない。
笑顔で「宿屋でお茶が飲めるのですか?」と興味津々だった。
「食堂も兼ねているから、お茶も出してくれるのよ。そうだわ。コーラを飲んでみる?」
「コーラ?」
「ええ、この前離宮で作って村でも飲めるようにしているのよ」
アデライーデはフィリップを連れて村の宿屋に入った。既に顔見知りの宿屋の女将さんはフィリップに驚いていたが、窓際の席を用意してくれた。
フィリップは初めて見る庶民の食堂で見るものすべてが珍しく、食堂をキョロキョロと見回していた。女将さんにコーラとオレンジスカッシュを頼むと、フィリップには小さめのジョッキに入れて持ってきてくれた。
「……これがコーラですか?」
「えぇ、そうよ」
「なにか泡が出てますが…」
「炭酸水が入っているのよ」
「炭酸水?」
「離宮に来た時に飲んだことなかった?村に井戸があるの」
「はい。村には来たことがなかったので…」
「飲んでみて。好き嫌いがあるからだめだったら他のものを用意させるわ」
フィリップは見たことも無い不思議な飲み物を凝視していた。アデライーデは美味しそうに飲んでいるが、音の出る飲み物は始めてだ。
恐る恐る口にすると、初めて飲むスパイシーな味と炭酸にびっくりした。
「美味しい!」
初めての味だがおいしくてゴクゴクと飲むと、「けふっ」とゲップが出てしまった。
「失礼しました…」
「急いで飲むとゲップが出るの…慣れるとうまくごまかせるようになるわ」
アデライーデがそっと囁くとフィリップは照れて今度はゆっくり飲みだした。隣の席ではマリアがギュンターにコーラの説明をしている。
ギュンターは、淑女の前でゲップをするのを堪えて「美味しい飲み物ですが、淑女の前で飲むには訓練が必要なものかもしれません」と笑っていた。
ギュンターにはライムモヒートの方が口に合うようだ。
フィリップはオレンジスカッシュも気にいって、飲みながら王宮での話をし始めた。あれから学友を決めるお茶会が開かれ、今はフィリップを含め5人で授業を受けているらしい。
--楽しそうで良かったわ。
食堂で一休みして、アデライーデはフィリップを連れて村の中を案内した。可愛らしい村の家、さかな釣りをする湖畔。フィリップは王宮にはない村の景色に目を輝かせる。
村に来たことはなかったようで見るもの全てが珍しいらしい。
「今度、さかな釣りでもしましょうか」
「はい!釣りはした事が無いから楽しみです」
村を案内し終わると、ギュンターがせっかくだからと離宮の警備隊の見学をフィリップに勧めた。ラインハートはギュンターの先輩にあたり、離宮に来たからには顔を出しておきたいと言う。
離宮から少し離れた森の中に警備隊の練習場がある。
高校のグラウンドくらいの広さで、半分が訓練場半分が馬場になっていた。
ギュンターが馬を馬場に連れてゆき、ラインハートと共に戻ってきた。
フィリップに挨拶をすると、丁度良い機会だからここで剣術の稽古をやらないかと言う話になった。
「以前より太刀筋が良くなったと言われたのです。頑張りますから見ていてください!」
フィリップは、アデライーデに見てもらいたくてラインハートに連れられていった。警備隊の一人がアデライーデの椅子を用意して見学が始まるとフィリップはラインハート相手に稽古をつけてもらい始めた。
中々にスパルタで、練習用の木剣を叩き落されてもフィリップは果敢に立ち向かっていく。
ハラハラしながら見ていてるとギュンターが恐れながら…とアデライーデに話しかけてきた。
「フィリップ様は元々剣術や乗馬の稽古を熱心にされていましたが、最近以前より増して熱心に稽古に励まれています。何でもアデライーデ様に頑張った成果をお見せしたいと…。よろしければ後でフィリップ様にお褒めの言葉をかけていただければと思います」
「ええ、もちろん。あんなに頑張っているのですから…いつもこういう激しい稽古をされているの?」
「はい。学院に入られると本格的に体力作りから始めますが、基本はこのような稽古ですね」
「そう…」
「アデライーデ様に褒められるとフィリップ様は頑張られるようで、ゲルツ卿もフィリップ様が以前より熱心になったと喜んでおりました」
「ゲルツ先生が?」
「ええ、書き取りも熱心に取り組まれているそうです」
「子供は褒められると頑張りますからね」
--そうよね。褒められると頑張るのよね。
陽子さんは、自分が褒める事でフィリップが頑張り良い結果になるのであればそれでいい、少しでも役に立つのならと稽古を見学していた。
1時間ほど経ち、ラインハートの「これまで」の言葉で剣術の稽古は終わり汗をかいたフィリップにタオルを渡して「すごい頑張りでしたね。剣の太刀筋はよくわかりませんが何度も向かっていくフィリップ様はすごかったですよ」アデライーデがそう言うとフィリップは嬉しそうに「本当ですか?」と喜んでいた。
「頑張りもそうですが、太刀筋もそのお年にしてはなかなかのものです」
「ありがとうございます!」
「学院に入られて、本格的に鍛錬をされればもっと剣がお上手になりますよ。たまにはこちらで兵士と同じ訓練をされると良いでしょう」
アデライーデやラインハートから褒められ、フィリップは嬉しそうに汗を拭っていた。
--そうそう!先生に期待されるのもやる気スイッチが入るのよね。隊長はやる気を出させるのが上手ね。
マリアに頼んで女将さんに用意してもらったコーラと何種類かの飲み物をみなに差し入れしてもらい、隊の皆と飲んでいるとフィリップはギュンターにそろそろ城に帰りましょうと小声で言われた。
「帰りが遅れると城の皆が心配します」
「え、もう少し!」
「予定より随分遅くなっているのです。馬丁が騒ぎ出す前に帰らないと大変な事になります。アデライーデ様にもご迷惑になりますよ」
「……わかった」
「それに…フィリップ様。今回だけですよ」と言われてフィリップは顔をしかめた。
「度々では…え?フィリップ様」
すぐにフィリップはラインハートの元に駆け寄り「隊長!今日はとても勉強になりました。またここに来て隊長に稽古をつけてもらってもいいですか?」と言うとラインハートは「もちろんですとも、いつでもおいでください」と良い笑顔でフィリップに答えた。
「ありがとうございます!城で稽古を頑張りますから、よろしくお願いします!」
「フィリップ様は稽古熱心で感心ですな。ギュンター!お前の指導が良いんだろう」
「……ありがとうございます」
先輩にそう言われてギュンターは苦笑いするしかなかった。
ラインハートの元で笑っているフィリップの笑顔が小悪魔にしか見えない。
「はい!とてもよく教えてもらっています」
「そうですか。次が楽しみですな」
「はい。隊長、すぐにまた来ます」
フィリップは次にまた離宮に来る口実ができた事で笑顔になり、ギュンターは今日の遠乗りの報告書をどう書こうかと思案しながら馬に跨った。
「アデライーデ様。また会いに来ます」
元気よく帰るフィリップと、妙に張り付いた笑顔のギュンターを皆で見送った。




