66 初日の巣蜜
「ふぁ…」
翌日はマリアが起こしに来なかった。
自然と目が覚めた時には、もう随分と太陽が高くなっていた。
マリアを呼ぼうと、サイドテーブルの上のベルに目をやると昨日アルヘルムから贈られた巣蜜の小箱が目に入った。
手のひらに納まるくらいの小箱を開けると、きれいな八角形のコムハニーが艶々と入っている。そっと、指で突こうとしたらドアのノックが聞こえた。
「おはようございます」とティーカートを押して入って来たマリアは笑いながら、「ダメですよ。お一人で食べちゃ」と言って、少し濃い目に入れた紅茶を差し出す。
「新婚夫婦で召し上がるものらしいですわ」
「え、でも初夜じゃなかったし…」
「残念だったのですか?」
マリアが笑いながら、スティックに刺したいちごを乗せた小皿をベッドテーブルに置いた。
「ち…違うわ!初夜じゃなかったのに蜂蜜を二人で食べるのも…って思ったのよ」アデライーデは慌てて紅茶に口をつける。
「蜂蜜は滋養のあるものですから、初夜でなくとも披露宴でお疲れのお二人にはぴったりと思いますわ。アデライーデ様、御御足はどうですか?」
「そんなには…」そう言っても、疲れはかなり残っている感じだ。
「足枕で少し上げておきましたけど、まだ少し張っているようですね。昨日はかなりハードな1日でしたから……。後ほど午餐を陛下と召し上がる時に巣蜜を添えますね」
マリアはアデライーデの足を確かめながらそう言うと、巣蜜の小箱をティーカートに下げた。
「初夜の翌日の最初の食事は、給仕を付けずお二人だけで召し上がるそうですから、もう少ししたらお支度をしましょう」
「ふ…ふたりだけ?」
「何でも、翌日はお食事を乗せたカートを寝室の前に置いておくのだそうです。でも白い結婚はバルク国でも初めての事なので、アデライーデ様がお目覚めになったら、こちらのお部屋にアルヘルム様がいらっしゃるそうですわ」
アルヘルムと何度か食事をしたが、いつも誰かいたので二人きりでの食事は初めてだ。なんだか緊張してしまうと表情に出たのかマリアが「私は給湯室に控えておりますので、何かありましたらお呼びくださると良いですわ」と声をかけた。
マリアは自分が付いてきたとはいえ、ひっそりと暮らしていたアデライーデが遠くこのバルクで王妃としてやっていけるか心配をしていたのだ。
口には出して言えないが、すでに妃や王子たちのいるアルヘルムに正妃として後から嫁ぐのは後宮に軋轢や諍いを起こしやすい。本人達にその気がなくとも周りが騒ぎ立てる。
アデライーデが離宮暮らしを言い出した時には、それは正妃としてどうなのかと思ったが皇帝陛下がお認めになり、騒ぎを起こした王太子となるであろう王子とも上手くやっていっているアデライーデを見て、それもありかと思えるようになった。
--最初は値踏みをしているようだった使用人たちも、アデライーデ様のお人柄に触れて心を開いてくれているようだし、アルヘルム様とゆっくりと関係を築けていけばアデライーデ様は安泰だわ。アデライーデ様ならきっと上手くやれると思うし…
白い結婚とは言え、結婚後にアルヘルムと二人きりになるのが不安げに見えたアデライーデをマリアは、気遣った。
「そうね…なにかあったらマリアを呼ぶわ」
ちょっとホッとしたようなアデライーデは、午餐に向けてのお支度の為に、ベッドから出た。
アデライーデが、新婚らしく薄い桜色のドレスに着換えるとメイドさん達はベランダにテーブルを用意していた。食事は横のカートに乗せて銀の丸蓋がかけられている。
しばらくすると、普段着なのか白のシャツに黒いトラウザーズと言ったいで立ちのアルヘルムがやって来た。
メイド達はすでに部屋を下がり、マリアはアルヘルムを出迎えるとすっと給湯室に下がっていった。
--緊張するわ…
「おはよう。昨日はよく眠れましたか?」
アルヘルムは、アデライーデの手を取り笑いかけた。
--近い!近いわ…アルヘルム様!
「おはようございます。はい、おかげさまでゆっくりと休めました」
「それは良かった。昨日は結婚式もそうでしたが披露宴では挨拶やダンスでお疲れでしたでしょう?」
今までの距離と違い、一歩近い距離にどぎまぎしているアデライーデをアルヘルムは構わずベランダのテーブルにエスコートする。
二人きりなので、アルヘルムがアデライーデの椅子を引く。
「私が用意しますので座っていて下さい。飲み物は何がいいですか?果物水はいちごとレモン、オレンジがありますよ」
「では、オレンジで…」
アデライーデがオレンジを選ぶと、刻んだオレンジとミントが入っているグラスにピッチャーからオレンジの果物水を注いだ。
カートの上の銀の丸蓋をあけ、大きめの皿に料理を少しずつ盛ると、グラスと共にアデライーデと自分の席においた。
「初めての食事に」と果物水で乾杯をし、口をつけるとオレンジとミントとほんのり蜂蜜の味が口の中に広がった。
「初めての食事は男性が女性に、サーブするのですよ」
「そうなのですね」
「女性は大変ですからね」
「…そ…そうなのですね。あ…こちらのお料理はなんですか?」
なんでか意味がわかる陽子さんは、明るいベランダでの食事で深くする話題ではないと慌てて話題を切り替えた。
照れているアデライーデに気がついたアルヘルムは、くすりと笑いながら料理を指差して説明を始めた。
「これは薄く切ったパンにクリームチーズに巣蜜を乗せたもの。これはビーポーレン(みつばち花粉)をかけた香草サラダ。こちらはローストポークにハニーマスタードをかけたものです」
「全部に蜂蜜を使っているのですか?」
「ええ…3日間はなにかにつけ蜂蜜を食べさせられますね」
「まぁ…」
「でも、今回は白い結婚ですのでこの食事だけですがね」
そう言うと、アルヘルムはクリームチーズの塗られたパンを口にする。アデライーデも同じパンを手にとって食事を始めた。塩味のあまりないクリームチーズのようで巣蜜の甘さが勝っている。
アルヘルムはパンを食べ終わるとアデライーデに今後の予定を話しだした。
「今日から3日間は貴女と一緒に過ごす予定なのですが、なにかご希望はありますか」
「3日間ご一緒?」
「ええ、本来は3日間寝室に籠もるのですがそう言う訳にもいかないので…それとも籠もった方が良かったでしょうか?」
爽やかな笑顔でとんでもない提案をぶち込んでくる…
「いえ!籠もらない方で! あ!いえ…嫌という意味では…いえ、籠もりたいわけでなく…」
アルヘルムの提案にしどろもどろに答えるアデライーデを見て、アルヘルムは笑いながら詫びを口にした。
「失礼…結婚したからと、くだけ過ぎてしまいました。白い結婚なのでそういう事は致しませんのでご安心を」
「はぁ…」
「そんな事をしたら、陛下に八つ裂きにされますからね」
そう言うと、ローストポークを口にした。
年に合わぬ落ち着きで自分と渡り合う事があると思えば、さっきから自分のからかいに慌てたり赤くなったりと忙しいアデライーデは、年相応の令嬢に見える。
いや、こちらが素なのか?だとしたら随分と可愛らしいな…皇女教育で公での対応を叩き込まれたのか?そうであれば今まで一人でよく頑張ってきたのだなと思いながらアデライーデを見ると、気持ちを立て直したのか食事を再開していた。
--はぁ…びっくりしたわ…。昨日といい今といい絶対からかわれているわ!今まで結婚前だから1線を引いていたみたいだけど、中身は結構プレイボーイなのかも…
プレイボーイ…死語である。
白い結婚とは言え、奥さんを口説くのはおかしな事では無い事に奥手な陽子さんは全く気がついて無かったのだ。
ビーポーレン(みつばち花粉)のかかった香草サラダをつつきながら、陽子さんはからかわれて、ちょっとご機嫌が斜めになっていた。その様子を察したのかアルヘルムは苦笑しながら話しかける。
「明日は、以前お約束していた港町に行ってみませんか?」
「え?」
「この時を逃すと公務で忙しくなりますし、貴女は離宮に行かれてしまうので是非と思いまして」
「ええ!是非」
陽子さんの機嫌は、港町と聞いて結構簡単に立て直った。
そんなアデライーデの表情から、アルヘルムは機嫌が良くなった事を察する。
「今日はこれから王宮内と庭園をご案内しましょう。庭園はすでにご存知でしょうが私からも案内して差し上げたいのでね」
「ええ、楽しみです!」
アルヘルムは食事が終わった後で、王宮内の案内のためにアデライーデをエスコートした。
昨日までよりずっと近い距離で。




