470 クネッケブロードと紫煙
「これが、スープカレーとな…」
「異国の香りだな」
「えぇ、初めての香りですわ」
「本当ですね。いい香りです」
ノアーデンの王宮で、帰国したステンが作るスープカレーの皿から銀蓋が取られた。
それまでクローシュに封じ込められていた異国の香りが北の王族のテーブルに広がり、一品一品テーブルに載る度にステンが料理の説明をしながら、晩餐が進んでいく。
まずはアデライーデの考案したスープカレー。そして旬のビーツやりんご、じゃがいもを賽の目切りにしてサワークリームで和えたピンクの根菜サラダのロソッリと続く。
次の料理は本来魚料理なのだが、軽めのカリーヴルストのあと、ステンは檸檬強めのソルベを出して王達の舌からカレーの味を完全に消し去った。
そして…メインディッシュはアデライーデ様直伝のかにクリームコロッケだ。
「こちらはバルク国正妃アデライーデ様が、ノアーデンの蟹のおいしさに感動され、食された時(味見)に閃いた料理との事でございます。リネア様のお口に合えば嬉しいとの事でした」
感動はしていたが、閃いた訳でなく…こんなに生のタラバガニが手にはいる機会は滅多にないと思い立っただけである。
リネアに気に入って貰えたら嬉しいと言ったのは真実なのだが。
「ほう…」
「先程のスープカレーは、寒さが厳しい我が国にと考案されたとの事…でしたね」
「うむ」
ノアーデンの王と王太子ラグナルは、それだけ言うとかにクリームコロッケをゆっくりと味わう。
リクサ妃もリネアもかにクリームコロッケを気に入ったようで、楽しげに会話をしながら食べ進めていた。
特にリネアはこの中の誰よりアデライーデと親睦を深めているからか、離宮での思い出話をしてステンにも離宮でどのようにアデライーデからレシピを教わったのかを聞きたがった。
ステンは出来るだけ余計な事を言わないよう料理の話のみを、口にする。汗をかきながら…。
珍しい皿の出た和やかな晩餐が終わり、ノアーデン王とラグナルは喫煙室に向かった。
「今日の晩餐の『感想』はどうであったか?」
「かにクリームコロッケは…まぁ…純粋な好意でしょうね。バルクで蟹は捕れません。スープカレーやカリーヴルストはカレー粉をこれから我が国へ売り込む手掛かりでしょう。南国ズューデンの物は確かに我が国の憧れですからね」
ラグナルの『感想』を聞きながら、ノアーデン王はパイプに火をつけた。
王の執事がアクアビットのグラスを二つ用意し、つまみのプレートを二皿置いて後ろに控えた。両方のプレートの上には一口大のクネッケブロードには、かにのオリーブオイル漬けが塗られている。
王はそれぞれの皿から1つずつ摘み、その蟹の芳香さとクネッケブロードのライ麦の香ばしい素朴さを口の中で味わった。
ノアーデンの自然は厳しい。元々採れる大地の恵みは少なく、深い森の恵みはあれど同じだけ危険は多い。造船技術があったからこその海の恵みも、荒ぶる海の男神の機嫌次第だった。
遠い昔、蟹も最初はその姿と漁網を破る習癖から忌諱されていて駆除はすれど、貧しい漁師も手をつけていなかった。
ある時、飢饉と不漁が重なり食料を他国に頼ったが、それを買えぬ貧しい民が飢えた。その時の王が魚の代わりに網に大量にかかった蟹を食卓へ望んだ。
当時の貴族達は王の奇行を影で嘲笑し、民達からはゲテモノ食いの酔狂王だと言われたが、蟹に大枚を払い続け民にも口にする事を禁じなかった王により、海沿いの餓死者は少しずつ減っていき、後にはタラバガニは王宮料理の定番になった。
長い時の後に民はその事を忘れ、タラバガニはノアーデンの秋の味覚となり貴族達は「その王は蟹を好んだ」とだけ伝えられる。
何故ならその王は公の歴史書に事実を書き残す事を諾としなかったからだ。
栄誉を嫌ったのか、その時王を嘲った貴族達との調和を乱す事を嫌うたのかはわからない。
ただノアーデンの王家にはその王の真意はひっそりと伝えられ、王家にとってタラバガニは特別な食材であった。
「旨いのぅ。これは春まで保存がきくかの」
「数ヶ月…程はもつのではないかと。できるだけ早めに食べて欲しいと、ステンは聞いてきているようですが」
今回返礼のレシピに、かにのオリーブオイル漬けは入っていない。残った蟹のほぐし身のお余りでちゃちゃっと作った物だからと、陽子さんはステンには口で作り方と材料を教えていた。
ただ陽子さんはタラバ様を、一欠片さえ無駄にしたくなかったのだ。もちろんアルヘルムは黙認している。
「あとから来るほんのりとした辛みは、ズューデンのレッドペッパーか」
「そのようですね。ステンの報告によれば、バルクはカレー粉と共に扱い始めるとか…抜け目はないですね」
ラグナルも、両方のプレートのかにのオリーブオイル漬けの塗られたクネッケブロードを摘みながら応えた。
レッドペッパーは無くても良いのだろうが、ある方が後味の余韻が違う。ついアクアビットが進んでしまう絶妙な余韻だ。
「正妃様は我が王家にとってのこの蟹の重みをご存じなのか? このレシピで我が国は今まで数日しか保存ができなかった蟹を春まで持たせ、特産にもできるようになる。油は輸入せねばならんがの」
自国でも知るものは少ない古い話に、ノアーデン王は神妙な顔をして息子に尋ねた。
「わかりかねます。ただ、正妃様は帝国の皇女様ですからね」
帝国には膨大な書物を有するこの大陸一の古い王宮大書庫がある。
「ふむ。なかなかに強かな御仁のようだな」
だが、自身が恥辱にまみれようとも民の命を繋ぐ為祖先が定着させた食文化を、特産品として一段あげる機会を逃す手はない。
「分かりませぬが、ステンの報告が全て真実なら、かなり型破りで破天荒なお方ですね。リクサとも違う…、そのリクサが言うにはふわふわとしているが、底が見えぬ方と。幸いにもリネアの事は目にかけて頂いているようですね。リネアの為にとキャラメルという菓子までお作りになられた」
「それならば、まぁ…良い。バルクの宰相から、フライヤーの共同事業の誘いの手紙が来ておったな」
「はい」
「帝国の油の産地を調べよ。打診をしなければならぬからの」
スープカレーも揚げ物も、最初は貴族や裕福な庶民から広げる。
しかし段々と貧しい者達も厳しいノアーデンの冬に寒い体を温め、腹を満たせるようになれば良いとノアーデンの王はフライヤーの共同事業を受ける事を決め、民の生活と孫娘の未来を願い、パイプの紫煙を燻らせた。
ビーツのピンク色が美しいフィンランドの伝統的なサラダ。主役の酸味に甘みのアクセントがある女性好みの美しいサラダ
https://hokuogohan.fukuya20cmd.com/2026/02/09/16545/
クネッケブロード (Knäckebröd):
ライ麦の香ばしさとパリッとした食感が特徴。乾燥しており長持ちするスウェーデン発祥のライ麦を使ったパリッとした食感のクラッカーみたいなパン。カルディとかで手に入ります!
実際のタラバガニは日本海近郊やオホーツク海、アラスカ沿岸に分布。北欧(特にノルウェー)へは、1960年代に旧ソ連がバレンツ海に移植してます。
鱈の漁場にいる蟹なので鱈場蟹…。タラ漁の網を破り、稚魚を食べる外敵として、かつては非常に嫌われていたそうです。日本以外では…w
日本で蟹を食べる習慣は室町くらいから記録があるそうですが、ほぼ地産地消ですね。明治以降に少しずつ一般で食べられるように。
ちなみに今は高級食材のロブスターも、アメリカで海のゴキブリと言われ当時最下層の人達の食べ物だったらしいです。囚人に与えるのは週3回までと厳しく制限されていたそうです!(驚)




