463 蟹酢とカニスプーン
「ごめんなさいね。紐取っちゃいけなかった事、言い忘れていたわ」
「いえ、私達も深く考えず茹でようとしましたので…」
そう言ってアルトはぽりぽりと頭をかいた。
アルト達も生きた海老を茹でる事はよくある。
その時は冷たい井戸水にしばらく入れて動きを鈍くさせていた。タラバガニも紐を切った時にほぼ動かなかったから同じだろうと油断していたのだ。
あと海老も茹で上がると赤くなる。同じような殻を持つ蟹も色が変化するのか興味があって蓋をしなかったのが災いした。
まぁ、みんなで鍋の周りを囲んでいたから、いち早くタラバガニの大脱走を食い止められたのだが…。
「火傷とかしてない?」
「あ、大丈夫です。『跳ね』には慣れてますから」
「なら、良いんだけど」
アデライーデの心配に料理人達は元気よく答えた。見ればみんな長袖の料理人服を着ていたので、アデライーデは胸をなで下ろし、オレンジ色が入った濃い朱色の体からホカホカの湯気を立て、鎮座しているタラバ様を見た。死闘には負けたが王者の風格を漂わせている。
そして、美味しそうである。
「じゃ、温かいうちに解体しましょうか」
気を取り直し、まずはタラバガニの足の付け根にある柔らかい関節の部分に包丁をいれて切り離して貰った。立派な足がバットに並べられていく。
「次はひっくり返してふんど…、ここの部分をとって親指を入れて殻を外してくれる?」
危うく褌と言いかけたが、単語の説明を求められるととても面倒な事になるので、アルトがよいしょとタラバガニをひっくり返しているのに乗じてさりげなく誤魔化した。
初めてなのにアルトが器用に殻を外すと、タラバ様の
体の左右に付いている薄灰色の柔らかいビラビラとしたエラを捨ててもらい、本体はひとまず横に置いてもらった。
ータラバ様の蟹味噌って無いって聞いたけど、本当なんだ。甲羅酒は…できないわね。
正確にはタラバガニにもカニ味噌はあるが、毛蟹とかズワイガニのように加熱で固まらず加熱の途中で流れ出てしまうのである。
酒飲みとしては残念であるが、仕方ない。
「足の剥き方なんだけど…キッチンバサミってあるかしら?」
「はい、こちらに」
現代のキッチンバサミと違って、一回り大きめの握り鋏のような物をアルトが取り出してきた。
「ここと、ここの関節に包丁を入れて…この辺に鋏を入れて、縦にチョキチョキしてくれる?」
「はい」
最初は固い殻に手間どったアルトだが、一本二本と切るうちにほぼ身を崩さずに剥けるようになってきた。
「後のタラバ様も同じようにやってみて。私はその間にソースを作ってるわ」
「はい!!」
アデライーデの言葉に他の料理人達も残ったタラバ様に群がる。そして、代わる代わるおっかなびっくりタラバ様の関節に包丁を入れ解体していった。
「お、甲羅の中に足が一対隠れてる!」
「足の殻、固いなー」
最初は遠慮がちに触れていた料理人達も段々と慣れてきて、足の関節を曲げたり伸ばしたり、わいわいがやがやとやり始めた。
「マリア、白ワインビネガーとコンソメとお砂糖と魚醤を用意してくれる?」
マリアがワインビネガー達を用意している間に、マヨネーズと魚醤を入れて陽子さんは魚醤マヨソースを手早くつくる。
そしてマリアが用意したワインビネガーを火にかけ、酸味を少し飛ばしてからコンソメとお砂糖と魚醤を適当に入れて「蟹酢もどき」を作った。本式には出汁が必要だがコンソメで代用したちょっと洋風のもどきであるが、甘酸っぱくてまろやかでなかなかいい味に仕上がった。
二種類のソースができた頃、すっかり剥かれた三杯分のタラバ様の御御足がきれいに皿に盛られていた。
「アデライーデ様。お作りになられたソースは何ですか?」
「こっちは魚醤マヨソースと、こっちは酸味を付けたあっさりしたソースなの。蟹の甘みを引き立てると思うわ。さぁ、みんな一本ずつ手に取って」
全員に御御足が行き渡ったのを確認し、まずはそのまま茹でたてのタラバ様を味わうべく「いただきます!」と陽子さんは御御足にかぶりついた。
「おいっしぃー!」
いい塩梅の塩加減に引き立てられた蟹の甘みが口の中いっぱいに広がる。前世でもタラバガニを食べた事はあるが、当然解凍したもので茹でたての温かいタラバ様を口にするのは初めてだ。
「う…美味い」
アデライーデが口にするのを見てから、アルト達も次々とタラバガニの足を口にする。
「海老とはまた違った旨味がある!」
「甘みが濃厚だな! 大きさが違うから海老より一口の満足感が違う」
「この甘酸っぱいソースをつけると、より甘みが増すぞ」
料理人達は手にした一本の御御足に蟹酢をつけたり魚醤マヨソースをつけて食べ比べの感想をお互いに言い合っていた。
「アデライーデ様、この体の部分はどう料理に使うのですか?」
目を閉じてうっとりとタラバ様の足を味わっていたアデライーデにアルトがこっそり話しかける。
「あぁ、それは身を掻き出してサラダにかけたりグラタンやクリームコロッケに入れようと思うの」
「なるほどですね」
だったら身は小さめのフォークで掻き出すかと考えていたアルトにアデライーデがにっこりと微笑む。
「これ! いつか使うかもと思って、マデルに作ってもらったカニスプーンがあるのよ」
「「おお!」」
そう。リネアからノアーデンの料理本を贈られた際にマデルに作って貰っていた正式名称『蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具(かにこうかくるいだいたいぶほきゃくみとりだしきぐ)』と言う名のカニスプーンをアデライーデはエプロンのポケットから取り出し、みんなに見えるように掲げもつ。
「たくさん作ってもらってるから、今から作る蒸し蟹と焼き蟹の身を掻き出す時に使いましょう!」
「「はい!!」」
目を輝かせながら応える料理人達にアデライーデはカニスプーンを配り始めた。
「そうか…それで贈られたタラバガニを、既に半分食べてしまった…と?」
夕方ノアーデンの料理人を引き連れてきたアルヘルムは、離宮の居間で俯くアデライーデを前に腹筋を震わせていた。




