44 シュナップスのグラス
「大丈夫か」
執務室に入ってくるなり、タクシスはアルヘルムに声をかけた。
「あぁ」
「…とてもそうは見えんがな」
アルヘルムはソファに深くもたれかかり、手には強い蒸留酒が並々注がれたグラスを持っていた。
「どうだったんだ」
「……どれの事だ?」
「…全部だ」
アルヘルムの口は重く中々口を開かない。
「世話のやける奴だなぁ。じゃ聞いてやるよ。フィリップはどうしてあんなことをしたんだ?」
グラスの酒を飲むと、眉間を押さえながらアルヘルムが答えた。
「テレサ付きの女官達の話を聞いたらしい。帝国から皇女が正妃として来ればテレサの立場は無くなり追い出されるとか、皇女との間に子が生まれればフィリップ達は王位を継げないとかそんな話を聞いて追い出したかったらしい」
「……人事考えとくよ」
噂話をするなとは言わないが、仮にも王妃付きの女官が噂話を王宮内の他の誰かに、まして当事者に聞かれるなんて迂闊すぎる。
「フィリップに父上はアイツが来たから母上を捨てるのか、自分たちはもういらないのかと責められた」
「……」
タクシスはグラスにワインを注いでアルヘルムの前に座ると、
「王子と言えど、まだ10才の子供に大人の都合はわからんさ」と言ってワインを飲んだ。
「先王もお前も妾妃を持たなかったしな」
「そんな金はない」
「金があっても持たなかったろう?」
「あぁ」
「それでフィリップは今どうしてる?」
「部屋で謹慎させている」
「テレサ様はどうしてる」
「自分の教育のせいだからフィリップを廃嫡にしないで欲しいと泣かれた」
「…おい、廃嫡って…」
「最悪の場合だ…」
アルヘルムはぐいっと蒸留酒をあおる。
「テレサはフィリップを廃嫡にするなら自分が代わりに修道院に入るから許してもらえないかと言い出して今まで止めていた。……勝手な事をしたら許さんとテレサも部屋に謹慎させてる」
「皇女様はお赦しくださったじゃないか」
「宰相付きのヨハン・ベックがいただろ」
「あぁ、あの全く表情が読めない奴な」
タクシスはヨハンの名前を聞いて嫌な顔をした。ニコニコとしていて懐柔しやすそうに見えるが、とらえどころがなく交渉相手にはしたくない男だ。
「奴が帝国に報告すればどうなるかわからん。なにかある前にこちらで対処したとなれば帝国も何も言えないだろう」
「まぁな…」
二人とも帝国がそんなに甘くない事はわかっている。わかってはいるが口には出せなかった。
あの後、アデライーデとの白い結婚の受諾の為にヨハン・ベックと会った時ヨハンは先程の事などつゆほども知らないような笑顔で受託書を受け取り「確かにお預かりいたします」とだけ言って、退出しようとした。
タクシスは、バルク国に帝国への叛意はなくこの婚儀を心待ちにしている事を伝えると「皇女様もそのようでございますね。喜ばしい限りです。アデライーデ様の花嫁姿を拝見できるとは栄誉なことでございます」と笑顔で応えられてしまった。
謝罪も何もさせない、触れもしない。話の手がかりすら与えずに宰相の文官は爽やかに退出していったのだ。
「皇女様はどうしてる」
アルヘルムは、アデライーデがどう思っているのか気になっていた。
あの場では気にしないと言っていたが、本心かどうかわからない。
フィリップを年端も行かぬ子供と言っていたがアデライーデもまだ子供なのだ。それなのに、取り乱すことも怒ることもせず大したことはないと笑ってあの場を収めた。
「部屋に帰ってから、風呂に入り侍女と食事をしてゆっくりしているらしい」
「何か話していたか?」
「メイド達の話では、フィリップの事はなにも話題に出なかったらしい。機嫌も良かったようだ。料理長はどんな人なのかと聞かれたくらいだと言っていた。メイド達も最初はビクビクしていたらしいが、あまりに普通で本当に気にされていないようだと言っていたな」
「そうか…」
「ただな… 名目はアデライーデ様が飲むワインを取りに行くという事で、侍女がヨハン・ベックのところに行った」
「……」
「輿入れの品の中からワインを1ケース取り出したいと、重いので男手が欲しいと言われて侍従の一人を連れて行っている。侍従は特に2人は話し込んでいる風でもなく単に受け渡しだけで終わったと言っていた……。本当に皇女様自身は気にしていないんじゃないか」
「そうだといいんだが…明日もう一度確かめてみる」
そう言ってアルヘルムは、グラスの蒸留酒を飲み干した。




