431 ズューデンと火の味
「魚醤の時は確かに強烈な臭いはしました。ですが、痛みを伴うような『刺激物』ではございませんでしたわ。このレッドペッパーはアルト殿が嗅いだだけで痛みで悶絶するようなものでございますよね? それをアデライーデ様がお口にするなぞ、もっての外でございます!」
いや、濃い魚醤の臭いもかなりの刺激物だと思うのだが、アルトが悶絶したのはレッドペッパーが辛いものという知識がなく鼻を近づけ過ぎ思いっきり吸い込んだせいだ。
「でも、容量用法を守れば大丈夫よ? ズューデンの方はみんな食べているんだし…」
陽子さんは、薬の注意書きのような言葉を口にしてマリアを説得するが、マリアは首を横に振ってキッチンテーブルに置いてあった木の大きなスプーンをぐいっと、アデライーデの前に突き出した。
「嗅いだだけで悶絶するような香辛料を、このスプーン山盛り2杯目も鍋に入れるとそのレシピには書いてございました。危のうございます!」
そのスプーンは、ユシュカ商会の賄いを作っているお婆さんからゲオルグの従僕がレシピを聞き取り、計量スプーン代わりにもらってきたものだ。
レシピにはそのスプーンでこの香辛料を何杯入れるという風に書いてあった。大きさ的には現代の無印のシリコンスプーンくらいのもので、お婆さんはそのスプーンで香辛料を計って毎食約20人分の賄いカレーを作っているとゲオルグから聞いている。
ーまぁ…確かに20人分とはいえ、その唐辛子の量はカレーや麻婆豆腐を食べ慣れた私でも躊躇する量なのよね…。
初めてゲオルグからこのレシピを渡された時に、20人分とは書かれていたが陽子さんはレッドペッパーの量に目を剥いた。
陽子さんは初めての料理を作る時はレシピ通りに作る派だ。だが、料理を作り慣れている人は分かると思うが調味料の分量で大体の味を想像できる。
料理は足し算はできるが引き算は難しい。レシピ通りにレッドペッパーを入れて作ったら、取り返しがつかないだろうという事は容易に想像できる量だった。
ーでも、マリアが心配するのもわかるわ。
目の前でアルトがあれほど痛がったのだ。アデライーデの安全を第一に考えるマリアを無碍にもできない。
でも、カレーは食べたい。
「でも、せっかくゲオルグ様がズューデンで食べたと言うレシピを『わざわざ』『私へのお土産』として聞き取りまでして持ち帰って下さったんですもの。作って口に合わなかったら仕方ないけど、一度も作らずに食べられませんとはゲオルグ様に言えないわ」
「それは…、そうでございますが…」
ここはゲオルグ様の威光を傘にきて、マリアの譲歩を引き出す作戦に陽子さんは切り替え『わざわざ』『私へのお土産』の言葉を強調してマリアに訴えた。
確かに王弟のお土産のレシピを試しもせずに全否定は不敬に当たり、せっかくのアデライーデとゲオルグの良好な仲にヒビを入れるかもとマリアは難しい顔をして口籠った。
ーよし! あと少し!
陽子さんは果敢にマリアを攻める。
「ね、まずはレッドペッパーを外して作ってみるわね。それなら良いでしょう?」
「この危険物を外して…ですか?」
どうもマリアの中で、レッドペッパーは危険物認定されているようだった。
こくこくと頷くアデライーデを見てからマリアは、赤い危険物をじっと睨んだ。
王室内の平和とアデライーデの安全…と、いろいろ考えたっぷり数分は危険物を睨んでいたマリアが、やっと口を開いた。
「それで…あれば、よろしいかと」
「ありがとう! マリア!嬉しいわ」
とりあえず王室内の不和は回避された。あとはカリルを作ってちょっとずつアレンジをし、マリア好みのルーを作って懐柔すれば良いのだ。
陽子さんが子供の頃、母は家族用に甘口カレーを大鍋で作り、辛いものが好きだった父には取り分けた小鍋に一味唐辛子や胡椒、ラー油などを加えた「お父さんの辛いカレー」を作っていた。
ー辛さは後からでも調整できるものね。まずは甘口のカレーに慣れればマリアの警戒も緩むわ。
大きくなるにつれ、自分も兄も少しずつ自分で辛さを足していき、少し辛くする度にちょっと大人になった気分になれた事を懐かしく思い出していた。
アデライーデはアルトに厨房から飴色に炒めたたまねぎをもらってきてもらうと、マリアにレシピを読み上げてもらいながら、それらを焦げ茶色になるまで丁寧に炒めた。
それに刻んだトマトを入れ弱火でペースト状になるまで炒め、レッドペッパー以外の香辛料を入れて火を通すと、すぐに懐かしいカレーの香りがキッチンの中に広がった。
「香りが、すごく立つのですね。異国っぽい良い香りですわ」
「これがズューデンのカリルの香り…。素晴らしい香りです」
マリアもアルトも香り立つカリルを目を丸くしながら見ていた。
「良い香りよね」
ーふむふむ。香りの受けは割と良いわね。
陽子さんは二人の様子を伺いながら焦げつかせないように弱火で丁寧に火を通してゆく。
ターメリックに熱が入り、焦げ茶のたまねぎを黄金色に変えていく。多分これがカレールーの原型だ。
そのペースト状のルーにレシピ通り水とぶつ切りにした鶏肉とヨーグルトを入れて焦げ付かないように弱火でじっくりとかき混ぜていると、厨房に繋がる扉の向こうが騒がしくなってきた。
「なんだ。この匂いは」
「なんでもズューデンの料理をアデライーデ様がお作りになっているんだって」
「異国の香辛料だよな。この香り! 初めて嗅ぐぞ」
「おい、押すなよ!」
キッチンから漏れるカレーの良い香りに厨房は大騒ぎになっていた。
「あいつら…。騒々しくて申し訳ございません。静かにさせて参ります」
「いいのよ。初めて嗅ぐ異国の香辛料の香りだもの。みんな気になるはずよ。せっかくだから、一緒に試食しましょう」
恐縮して厨房に行こうとするアルトを止め、陽子さんはマリアに料理人達をキッチンに招き入れるように頼んだ。
小皿にカリルとブレートヒェン(白パン)を手にした料理人達が、キッチンにみっちりと並ぶ。みんなカリルの匂いを嗅ぎたくてそわそわして皿を見つめていた。
「これはズューデンのカリルというお料理で、中に入る材料で名前が違ってくるの。今日はチキンが入っているからチキンカリルよ。ズューデンではナンやチャパティと呼ばれるパンにつけて食べるようだけど、ナンはないから代わりに白パンで試食しましょう。さぁ、まずは召し上がれ」
「「「はい!!」」」
アデライーデからカリルの説明を聞くと、料理人達は一斉にカリルの匂いを嗅ぐ。
「刺激的な香りだよな」
「煮込み料理なのかな? 味わったことない味だ」
「これは…豚や羊肉で作っても良さそうだな!」
「ソースとして使えないか?」
「香辛料の味が強いな」
「この香りはこの香辛料かな」
「色をつける香辛料か…、香りは素朴なんだな」
わいわいがやがやと、賑やかな試食が始まった。料理人達は口々にカリルの感想を口にする。
「ねぇ、マリア。どう?」
「はい、美味しいと思います。香りが良いですね」
マリアはそう言って白パンにちょっとだけカリルをつけてちびちびと食べていた。
ーあー、多分そんなに好みじゃないんだわ。
マリアはどちらかと言えば食に対して保守的である。お菓子は別だが、今でもお魚よりお肉が好きだし炭酸水もどちらかと言えば苦手で、初めて魚醤のからあげを作った時も恐る恐る口にしていた。
このレシピのカリルはレッドペッパーが入ってないだけで、当たり前だが現地そのままで香辛料が多くマリアには食べ慣れない味である。
現代のカレールーに慣れている陽子さんも、もう少しコクが欲しい気がする。
「え? ズューデンの料理って火の味がするんですか?!」
その声にアデライーデが振り返ると、若い料理人達が年嵩の料理人を囲んで話していた。
懐かしいCM ハウスバーモントカレーの 秀樹感激!のやつです 笑
https://www.youtube.com/watch?v=ZY-ljiEGP4Q




