42 執務室とブルーノと噂話
アルヘルムが執務室に戻ると、すでにブルーノ・タクシスがソファで書類を見ていた。
タクシスのソファのサイドテーブルには、昼間のお茶に代わりに蜂蜜酒とワインのボトルが置かれている。
「遅かったな」
「あぁ」
タクシスはグラスを取り出すとアルヘルムの前に置き、蜂蜜酒とワインのどっちにするか聞いてきた。アルヘルムは蜂蜜酒を指さす。
「どうだった?皇女様との晩餐は」
「意外に会話は弾んだよ」
「へぇ、意外だな」
乾杯をしてグラスに口をつけてからアルヘルムが切り出す。
「皇女様は、あの年でも普通に大人との会話や晩餐をそつなくこなすように教育されているのか」
「それはわからんが、晩餐の後に庭を眺めようとベランダに誘ったんだって?」
「あぁ、ちょっと興味が湧いてな。魚が好きだとか、うちの蜂蜜酒を美味いと言ってベランダでも頼んで飲んでいたよ」
「気に入られようとしてか?」
「……いや…あれは違うな。楽しんで食べていたし酒好きそうだ」
そのとおりである。
「メイド達からの報告も上がっているぞ」
アルヘルムが入ってくるまでに読んでいた書類が、マイヤー夫人が纏めたメイド達からの聞き取り調査の報告書だったらしい。
渡された書類にざっと目を通すと、タクシスをちらっと見やる。
「褒め言葉しか無いんだが…」
報告書には、メイド達がアデライーデの部屋で見聞きしたほぼ全ての出来事が事細かに書かれていた。
アデライーデはメイド達にも穏やかに接していたようだし、帝国から連れて来た侍女も気さくな人柄のようで、アルヘルムとの顔合わせの支度はメイド達と一緒にしたらしい。
メイド達個別の感想がついていたが、仕事に対して感謝された事が嬉しかった・アデライーデ様と仲の良い侍女がうらやましい等とあり、アデライーデ付きのメイドになる話が来た場合はどうしたいかとの問いに全員が「是非!」と答えたらしい。
最後にマイヤー夫人の心証で、「これからお仕えしないとわかりませんが謙虚な方のようです」と添えられていた。
「ヨハンナもか…」
小国と言えど周辺国との付き合いはあり賓客も度々城を訪れる。
アルヘルムやタクシスの前では良い顔をしても使用人、特にメイドは「しゃべる道具」扱いの貴族がほとんどだ。
気を抜いているからメイドから思わぬ話を聞くことも多い。
「宰相閣下名代のヨハン・ベック次席文官殿との晩餐はどうだったんだ」
「こっちは予定通りだったよ。花嫁衣裳は1週間後に到着予定。輿入れ道具の目録を受け取って明日立ち会いでの受領式。で、ベック氏は婚儀の見届け人の役目が終わるまで税率改定の細かい擦り合わせと確認の会議をよろしくと言う味気ない会話の晩餐だったよ」
「実のある会話じゃないか」
「実はなかったのか?」
アルヘルムは報告書を置き、ワインを手に取りふたつのグラスに注ぐと片方をブルーノに差し出した。
「殿下と呼ばないで欲しいと、言われたよ」
「…………それはまた…積極的な」
昼間に会った少女が、アルヘルムを誘うさまを想像できなかった。
紅茶とバラの花のジャムで生きていそうな少女だったが…
「いや、単に呼ばれなれてないらしい。成年前だからと言われればそう思うが、私的なパーティにも一切出たことがないような口ぶりだった。忘れられた皇女と言うのは本当のようだな」
「いや、それもわからんらしいぞ」
タクシスはそう言うと、2杯目のワインをグラスに注いだ。
「夕方、ライエン伯爵の所に行かせていた文官が聞いてきた話なのだが…」
ライエン伯爵はバルク国と国境を接する領地の領主である。
敵対する国との国境に領地を持つ伯爵は『辺境伯』と呼ばれ高位貴族としての身分や自軍を持ったり自治権があったりするが、静かな小国の隣に位置するライエン伯爵は国境に領地を持つただの伯爵だ。
ライエン伯爵家は誠実な一族で、アルヘルムが帝国と盟約を結ぶ事になったのもライエン伯爵家との長年の付き合いによるものが多い。
今回国境での引き継ぎ式でも、ライエン伯からのこまめな連絡と情報でスムーズに行えたのだ。
「それではアデライーデ様は、皇帝の唯一の正統な実子かもしれないと?」
「あぁ、その噂がある。帝国での婚儀披露の時に皇后陛下のティアラと同じエメラルドの髪飾りをつけていたそうだ。皇后の瞳は碧だしな。終始仲睦まじい様子だったらしい」
「じゃ、なぜうちに降嫁されるんだ。実子なら女帝になるんじゃないのか」
「帝国が危ないって言われていた頃があったろう?」
「あぁ」
空になったアルヘルムのグラスにタクシスは、ワインを注いだ
「あの頃にアデライーデ様は産まれている。皇后も皇帝の名代であちこち行っていてしばらく臣下の前に出なかった時期があったらしいんだ。ひっそり産んで暗殺を避けるために忘れられた皇女として隠して育てたと言う者もいる」
「………」
「だが生母はベアトリーチェ様との話もある。母親に生き写しだと言う者もいるんだ」
「ただ既にベアトリーチェ様の生家は死に絶えて血族はいない。そして母子してほとんど社交をせずに離宮でひっそり暮らしていたから、両陛下くらいしか事実を知るものはいない。もしかすると本人も知らないかもしれない」
「………」
「なぁ、この婚儀…『白い結婚』で良かったのかもしれないな」
『白い結婚』とは、花嫁または両人が幼い場合、結婚はするが初夜は迎えず成人してから夫婦生活を始めるというシステムである。
低年齢での妊娠出産は体がそれに耐えられず、死産や難産で母子共に亡くなってしまう事を経験則で知っているからだ。
そして、白い結婚の間の離婚はお互いに瑕疵が付かない
アデライーデが未成年である為、当然成年までの白い結婚は条件としてついていた。合意の返事は当人同士の顔合わせが済んでからというのが慣例の為明日ベック氏にアルヘルムから告げられる予定となっている。
「そうだな… 帝国の意図が読み取れないしな」
「まぁ、うち程度では帝国の内情は読み取れないがな」
「晩餐の席で、うちの国をどう思うか聞いたんだ」
「ほう。でなんと?」
「伸びしろのある国と言われたよ」
「上手いな」
「皇后も同じことを聞いたらしい」
「へぇ」
「皇帝も皇后もバルク国は落ち着いた穏やかな国だから安心して送り出してくれたと言っていた」
「………。そこだけ聞くと皇后の実子っぽいな。可愛い娘を暗殺や陰謀渦巻く帝国から、妃の子としてのんびりした国に逃したと。それなら関税の引き下げも見えない持参金として持たせたと言われても納得はする」
「そうだな… どちらにしろ賓客として扱うのに変わりはない。少なくとも皇帝の娘である事には変わりないからな」
「そうだな」
明日があるからとタクシスが部屋を出たあと、空になったグラスに酒を注ごうとしてボトルに手を伸ばすと、いつの間にか2本ともボトルは空いていた。




