417 轍と夫婦の形
今回息子から「王自身が王妃と正妃の均衡を壊す原因になりかねない。しかも本人にその自覚なし」なのだが、どうすればいいかと相談された時にイザベラは「しかたない」とその警告役を引き受けた。
息子は嫁にベタ惚れだ。愛人も第二夫人も持つ気はなく、貴族の第二夫人が本来持つ役割は全て自身の情報網や家臣を育て、それに充てている。
ブルーノ自身からは、アルヘルムに懸念も進言も言いにくい話ではある。言ったとしても経験も第二夫人を持つ気もない人物からの話に説得力はない。
イザベラは息子からアデライーデが離宮に移った時に経緯を聞いていたが、正直最初は半信半疑だった。年若い皇女様がそこまで弁えてらっしゃるとは考えにくかったからだ。
ー帝国の皇女教育の賜物なのかしら。それともブルーノが言うように皇女様の御性分なのかしら?
イザベラが知るアデライーデは結婚式で挨拶をした際の緊張した笑顔と、その後に息子や嫁から聞く伝聞しかない。
大抵の人物はそれぞれに見せる顔が違う。特に男と女ではがらりと評価が分かれたりする。社交の園で目を肥やしたメラニアからもアデライーデの評価が高かった事にひとまずの安心を覚えたが、目配りを忘れないようにと囁く事は忘れなかった。
「そういえば、少し前ブルーノの所からとても美味しいかぼちゃプリンというものが贈られてきたわ。なんでもアデライーデ様のレシピのデザートだとか」
イザベラは、話の糸口を掴む為に会話の餌を撒く。
「ええ、テレサとも二人で試食をしました。その時に……、少しテレサから心の内を聞きました。帝国から皇女を迎えるにあたり、決して心穏やかな時ばかりでなかったと。しかし、テレサは私の気持ちを汲み取ってくれていました。私もこれまで以上にテレサを大事にしようと思っています」
「良い心がけだわ。それを聞いて安心しましたわ」
そう言って、イザベラはもう何杯目か分からない空のグラスを老執事に差し出した。
老執事は新しい瓶を開け、とくとくと二人のグラスに艷やかな赤いワインを注ぐ。
「そうそう、マーサを覚えていらっしゃる?」
「はい、マーサ元第二夫人ですね」
マーサはタクシス家の第二夫人で、下位貴族や庶民向けの雑貨の商会を営む子爵家の出身だった。イザベラとは違い地味な印象だったとしかアルヘルムの記憶にはない。
彼女は前宰相が亡くなった時に第二夫人を辞し、実家に戻ったとアルヘルムはブルーノから聞いていた。
「先日、彼女のお見舞いに行ってきたのよ。多分今生でマーサと話をできるのは最後になると思ったから」
「それは…、なんと申し上げて良いか」
マーサはイザベラより少し年上で、もう長くはないとの子爵家からの知らせに、イザベラはマーサに会いに行っていた。
貴族の第二夫人第三夫人ら、『夫人』の敬称をつけて呼ばれる女性達は、現代でいう愛人とかお妾さんと言われる方々と違い、本来は分業で家を支える人という意味合いが強い。
では、その家に就職で良くないかと思うのは現代の感覚で、家が傾くかもしれない弱みや恥部も分かち合う場合もある為に、より強い結びつきである婚姻ー第二夫人達の実家が連帯保証人ーとなるのだ。
主人が外でつくり飽きれば取り替えられる愛人と違い、第二夫人達は家の仕事を分担する役目があり待遇は夫人の管理下となる。
まぁ、一種の上司と部下である。そして夫人が亡くなったり万が一にも離縁ともなれば下剋上で第二夫人達の中から『夫人』へと繰り上がる場合もある。
とはいえ愛人のような第二夫人達もいれば、マーサのように国外と取引をしている実家の商会とタクシス家の取り次ぎをする夫人もいた。
マーサは当時外貨を稼ごうとしてた先王の希望に応えるため、前宰相だったユーリヒ・タクシスが表立つことなく国外の情勢を手に入れる為に迎えた第二夫人だった。
「良いのよ。私と彼女もたくさん言葉を交わしたわけじゃなかったわ。ただ昔話を少ししてお茶を一杯飲んだだけよ」
イザベラはグラスの中の揺れるワインに目を落としていた。
「彼女とはタクシス家の夫人と第二夫人として共に手を取り合って家を支えてきたわ。マーサも自分の立場を理解していたし、私も彼女の立場を尊重していた」
「はい…」
「ただ、引っ掻き回していたのはユーリヒだったわ」
「引っ掻き回す?」
「ユーリヒに悪気はなかったわ。むしろ良かれと思って試行錯誤していた…と、今なら思うわ」
アルヘルムは、きょとんとした顔をした。アルヘルムが覚えている前宰相は堅物で思慮深く、とても夫人と第二夫人との間を騒がせるような人物に思えなかったからだ。
「ここからは私の独り言として聞いてもらえるかしら?」
「はい…」
アルヘルムの返事を聞いて、イザベラはくーっとグラスの中のワインを飲み干し、にっこりと笑った。
イザベラは、当時の自分の気持ちをワイングラスに向かってつらつらと話し始めた。
夫が王に応えるためにマーサを迎えた事は頭で分かっていること。一旦は納得したと思う気持ちと時折むくむくと沸き出でる妻としての感情とのせめぎ合い。それに相反するマーサのタクシス家の貢献を認め好ましく思う気持ち。
マーサはブルーノに問われれば惜しみなく商会のイロハを教えていた。
いっそ、マーサがタクシス家の『夫人』の座を狙うような底の浅い女性であれば抱かなかった複雑な想いを、イザベラは何重にも包んで口にした。
そして夫が良かれと、マーサとの仲を取り持とうとして何度も微妙な雰囲気になった事も。
「同じ轍を踏まないようにします」
イザベラの話を黙って聞いていたアルヘルムが、何かを察したのか口を開いた。
「良い事だわ。でもね、その轍は私達と同じ轍とは限らないのよ?」
くすくすと笑いながらイザベラはワインを口にする。
「は?」
「だって、轍は夫婦の数だけあるのよ。参考にはなっても正解じゃないの」
「……では、どうすれば」
思いがけないイザベラの言葉にアルヘルムは戸惑いを口にした。
「ご自身で…いえ、テレサ様と見つけなさいな。轍は夫婦で作るものよ」
まだイザベラの言葉に戸惑っているアルヘルムに微笑みかけながら、イザベラは深くソファにもたれかかった。




