415 赤ワインと前宰相夫人
「お久しぶりです。伯母上」
「本当にご無沙汰ね。危うく顔を忘れるところだったわよ。甥っ子殿」
「申し訳ありません。伯母上」
「でも、いいわ。許して差し上げてよ。お忙しかったようだから」
変わらぬ口調に苦笑いをしながらアルヘルムは久方ぶりに会う伯母の差し出す右手をとり、その甲に敬愛を示した。
その年の割に豊かな白髪を結い上げ、背筋をぴんと伸ばしてアルヘルムからの敬愛を受けたその老婦人は宰相ブルーノ・タクシスの母であり、アルヘルムの母の姉イザベラだ。
宰相である夫を卓越した社交力でよく助け、気の強さはバルク一と恐れられた女性でもある。強かではあるが面倒見がよく彼女を慕う貴族女性は多い。
ただ、やんちゃだったアルヘルムとブルーノはよくイザベラに大目玉をもらい尻を叩かれていた。後にも先にも王子のズボンを下ろして生尻を叩いたのはイザベラだけである。ちなみにそんなアルヘルムを見て育った弟のゲオルグは、兄の踏んだ轍は踏まない子に育った。
イザベラは夫である前宰相が亡くなった時に領地に居を移し、足が不自由だからと言う理由で社交界にも顔を出していない。
本来であれば私的な訪問とはいえ、国王を出迎えもソファから立ち上がることもせずに迎えるのは不敬にあたるが、アルヘルムは足の悪いイザベラにはそれを許している。
アルヘルムとブルーノが、未だに頭の上がらない人物である。
「まずは、最近の国の発展に祝意を。昨年からの活躍は耳にしていますよ。島の開発、フォルトゥナガルテン、そして炭酸水の事。先王様が聞けばお喜びになられたでしょう」
この伯母の侮れないところは、自身は領地に引っ込んでいても前宰相夫人としての人脈は生きていて、旧知の夫人達やその嫁達との手紙のやりとりや訪問があるところだ。そして今も嫁であるメラニアが頼りにしている人物である。
「ありがとうございます。伯母上に褒めていただけるとは光栄です」
「まぁ、まずはお座りなさい」
やっと席を勧められ、アルヘルムがソファに腰をおろすとお茶ではなく蜂蜜酒が出てきた。
「バルクの繁栄に乾杯。そしてノアーデン国との縁組の内定おめでとう。これで貴方もお祖父様になれるわね」
「伯母上、気が早いです……」
「そんな事ないわ。10年くらいあっという間よ?」
深いしわが刻まれていても艶やかな笑顔で笑うイザベラは、優雅な手付きで蜂蜜酒を口にした。
「ところで最近はどうかしら」
そう言われてアルヘルムは、問われるままこの1年余りの炭酸水の輸出の話からフィリップの婚約内定までの話を話した。イザベラは興味深そうにアルヘルムの話に耳を傾ける。
すでにブルーノや旧知の知人から聞き及んでいる事も丹念に聞き、アルヘルムの個人的な感想も口にさせた。
フィリップの婚約の話が終わると、老執事に目配せされた見目麗しい給仕が伯母自慢の自領の赤ワインを新しいグラスに注ぎ、蜂蜜酒のグラスと差し替える。
「そう、早めに婚約者が決まって良かったわ。まだその年頃であれば候補者だったご令嬢達も身の振り先があるわ」
「はい。正式な発表は来年春なので、今メラニア殿やテレサに各派閥へ根回しをしてもらっています」
「できれば全員、良い嫁ぎ先が見つかるといいわね」
アルヘルムが結婚した段階で将来の側近、王妃候補となる子を作るべく高位貴族は子作りをする。当然フィリップと年の近い高位貴族の令嬢は、幼い頃から親より大きな期待と厳しい淑女教育を受け、ただ一人の王妃を目指すよう諭される。
王子王女の婚約が遅いと、同じくらいの年齢の貴族の婚約も遅れる。どうしても王妃にさせたいと婚約させずにいて娘が王妃になれないとなると、年の近い同格の相手は既に王妃レースに参加しなかった令嬢達と婚約済みで嫁ぎ先が見つからない事がある。
婚期を逃がさないように仕方なく下位の貴族に嫁ぐか、不本意な結婚を良しとしない場合は、そのまま未婚か最悪修道院に行く事を望む令嬢もいる。
フィリップの場合は国外のノアーデンからの輿入れになるので、フィリップの婚約者候補がいた家には王家から釣り合いのとれる相手との取り次ぎを各派閥に根回しをしなければならない。
王家による速やかなアフターケアは、今後のフィリップの治世に影響するからだ。
「はい、テレサには本当に感謝しています。今も茶会で各派閥の夫人方とリネア姫の受け入れの調整をしてくれています」
「そう。テレサ様の社交力は素晴らしいものがあるわね。外に向けてのものもそうだし、内に向けてもね」
イザベラがにっこりと笑うと、老執事は空いたアルヘルムのグラスに二杯目の赤ワインを注いだ。いつの間にか見目麗しい給仕は姿を消していた。
「アデライーデ様とテレサ様は、貴方の目から見てどう映ってる?」
「ええ、二人は仲良くやっていますよ。話も合うようで安心しています。子供達ともアデライーデは家族のように接してくれて、この前もフィリップと二人で離宮を訪ね楽しく過ごしましたよ」
アルヘルムはイザベラに少し照れながら答え、グラスに口をつける。伯母の自慢の赤ワインは口当たりがよい。
「そう、良いことね。ところで貴方は二人にどういう心持ちで接しているの?」
イザベラはそれまでの伯母の顔からかつての宰相夫人の笑顔でアルヘルムに問うた。
イザベラ様はウワバミです笑




