397 赤い線と髪飾り
「ふふ…ふふふ…。エリアスと?」
カトリーヌの先程とは違った強張った顔を見て、陽子さんは自分が余計な事を言ってしまったのを悟った。
ーあー、なんか地雷踏んだっぽいわね。
「余裕ぶって! 少しここで上手くやってるからって、偉そうに! 白い結婚のお前になにがわかるのよ!」
「それは失礼しましたね。白だろうが黒だろうが、何しろ結婚生活の経験だけはあるので」
「バカにしているの?!」
「いえ、全然」
カトリーヌがダランベールから言いつけられている用事は「手紙のやりとり」で済んだはずだ。だが今のカトリーヌは、自分が言った社交辞令の中の言葉に感情を抑えられなくて八つ当たり的に噛みついてきているようにしか見えなかった。
しかたない。
こういう時は、言いたいだけ言わせてガス抜きをするしかない。陽子さんはカトリーヌの癇癪に少しだけ向かい合ってみることにした。
ここでカトリーヌの言葉を無視して引き上げるのは簡単だが、そうすればそれを収めるには誰かが犠牲になるからだ。
「お前なんか、私の身代わりでここに嫁いできたくせに!」
「……そんな話も聞いたわね。それがどうしたの」
「どうしたのって…、正妃なんておだてられているけど、どうせお飾りでしょ?!」
「お飾りで結構。むしろ望むところだわね」
失礼にも扇でアデライーデを指差すカトリーヌに、陽子さんは腕組みして淡々と返す。
ー口喧嘩慣れしてないわね。この子にお姉さんとか妹はいないのかしら。まだ返し言葉ができなかった薫の小学生の時を思い出すわね。
「良いようにバルクの為に使われているだけじゃない!」
「ええ、バルクの為になるなら良いように使われて結構よ。むしろ、ばんばん使って欲しいわ。それがどうしたの」
強い言葉を投げつけても、怯むでも怖気づくでもなく淡々と言い返してくるアデライーデにカトリーヌのイライラは急激に高まってくる。
今までカトリーヌが強い口調で咎めた相手は、すぐに頭を垂れ詫びを入れるか、誤解ですと言い訳を言い始めていた。こんな風に言い返されるなんてことは、なかったからだ。
「はっ! 強がりもいい加減にしなさいよね! 聞いたわよ。お前正妃と言っても離宮住まいだそうね。王妃を優先してお前は離宮に追いやられてるくせに!」
「それは違うわね。離宮にいるのは私が望んだからよ」
「どうだか…そんな嘘を誰が信じると…」
「もちろん、皇帝陛下も皇后陛下も事前にご存じよ。嘘だと思うなら直接確かめてみたら?」
「……」
「元々、子供もいるご夫妻の間に後から割り込んできたのよ。政略結婚を受け入れてくれただけありがたい事でしょ? どんな形であれ、仲良くやっているからご心配なく」
カトリーヌの目の色が一瞬揺れた。
異腹妹は、ちっぽけな小国に自分の身代わりで嫁ぎ、肩身が狭く帝国にいる時と同じように離宮に追いやられ惨めな生活をしていると思っていた。
バルクから聞こえるアデライーデの名声は、アデライーデの名を利用して全てバルクがやっていると祖父に教えられていたからだ。
だから、少し優しい言葉をかければアデライーデはすぐに自分になびくと思っていた。
だがバルクに来てみれば、出迎えの時から午餐会、お茶の時間でバルク王や王妃、使用人達全てがアデライーデを大事にし敬い守っているのを肌で感じた。
特に茶会では、ヒナを守る白鳥のように王妃と宰相夫人が言葉の羽を広げ自分の前に立ち塞がった。
テレサ達にもだが、アデライーデもそれを当然のようにしている様子に、無性に自分が惨めに思えて腹が立った。
そして、アデライーデの「後から割り込んだ」という言葉がカトリーヌの耳に残る。
大事にされているという自信なのか、目の前にいる異腹妹は、自分にも自分が言った言葉にも怯みもせず、腕組みをしてこちらをじっと見据えている。
憐れんでやるつもりが、より自分が惨めになるだけだった。
「上辺だけよ! 本当は大事にも愛されてもないくせに!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら叫ぶカトリーヌを見て、陽子さんは色々察した。
ーこれが八つ当たりの本当の理由よね。うすうす旦那さんと上手くいってないんじゃないかと思っていたけど、重症そうね。
マリアから、バルクに輿入れして割とすぐにカトリーヌが婚約した事も、今春結婚祝いを贈ったともアルヘルムから聞いていたが、興味がなかったから「おめでたい事ね」と言って済ませていた。
貴族の政略結婚の実情なんて知らない。陽子さんの世代は親戚から勧められるお見合い結婚と恋愛結婚(職場恋愛含む)が4:6くらいで、アデライーデのように結婚が決まってからの顔合わせはなかったにしろ、数回のデートで結婚を決めた友人も多かった。
むかし大量にいたお見合いおばさんはいなくなったが、今も結婚相談所で結婚している人はたくさんいる。政略結婚とは違うが、似ていると思う。
恋愛結婚でもそうだが、結婚生活なんて蓋を開けてみなければわからないびっくり箱のようなものである。
この子の旦那さんはすぐに謝罪の言葉は発したが、「出ていって」というこちらの言葉に、それ以上の庇い立てもすることなくあっさりそれに従った。それで陽子さんには察しがつく。伊達に人生長く生きてない。
「かも知れないわね。お腹の中はわからないものね。でも、上辺だけでも仲良くなれるように努力はしたのよ」
「皇女のくせに、そんな事をしないといけないなんて惨めね! 私はね、忘れられていたお前なんかよりずっと敬われて大切にされているのよ! そんな事しなくても愛されるべき存在なの!」
この年頃の子らしい。
周りからは溢れるような愛情が当たり前のように貰える前提で、自分がする事は些細なことも最大限の評価が欲しい年頃だ。
「どんな立場であれ、他人様と仲良くするのはある程度の努力…歩み寄りとも言うわね。それをするのは当たり前の事よ。しなくていいのは赤ちゃんだけ。貴女、皇女だか公爵夫人って事以外に、なにか努力したって誇れるようなところがあるの?」
「なっ!……」
カトリーヌはアデライーデの言葉になにも言い返せなかった。
自分は皇女である。それが全てで、公爵夫人となっても「皇族に準じる」それが全ての世界線で生きてきた。
ぐるぐると走馬灯のように出会ってからのエリアスとのやりとりや、母親との会話、夜会の出来事、初夜のエリアスの冷たい顔が巡る。
「う…うるさい…煩い…五月蝿い!!」
なぜかわからない胸を掻きむしるような怒りのあまり手近にあったガラスの髪飾りを掴むと床に叩きつけた。
ピっ!
叩きつけられた髪飾りの割れた破片がアデライーデの頬をかすり、うっすらと短い赤い線をひいた。
「あ……」
カトリーヌは、それを見て一気に現実に戻る。
相手は異腹妹とはいえ一国の正妃で、自分は公爵夫人でしかないことを思い出したのだ。他国の王族を故意でないといえ、傷つければ重大な罪になる。
しかも正妃の顔を傷つけたのだ。公爵家が取り潰しになってもおかしくない出来事にカトリーヌの頭は真っ白になった。
アデライーデはちらりと壁の鏡を見て、つかつかとカトリーヌに近寄ってきた。
「怪我はない?」
カトリーヌは青い顔をしてぷるぷると小さく頷く。
「じゃ、続けるわね。貴女がどんな育てられ方をしたかは知らないわ。でも、皇女って言うならそういう事も教わっているはずよ」
頬の傷を気にすることなく、陽子さんはカトリーヌを詰める。
「マナー教師は…でも、私はそんな事気にしなくていいと…お母様は仰ったわ」
ーあら、意外に素直ね。
「どういう意味で貴女のお母さんが言ったかわからないけど、親も間違うの。間違ってなくても、良かれと思って教える事もあなたにとってはズレていることもあるわ」
「……」
「でも、もう貴女はそれを自分でどうするか、教育も受けたし自分の頭で考えられる年よね? 貴女は貴女でお母さんじゃないでしょ」
ーなにを言っているの? この子は何が言いたいの?
自分がやってしまった事と、アデライーデの静かな気迫に、カトリーヌは激しく瞳を揺らし、自分より年下の異腹妹を不安げに見つめた。
ーもう限界よね。この子キャパオーバーしてるわ。
そもそも自分の言葉を「今」理解してもらおうとも思わない。確かに役に立つとも言えないし、陽子さんが言う事はこの世界では間違ってるかもしれない。聞き入れるも流してくれても構わない。
ただ、形はいっちょ前の大人の姿の後ろに見える、不安げでプライドだけを頼りに癇癪を起こしている子供姿のカトリーヌに薫の小さい頃を重ね、ちょっとだけ余計なお節介を言いたくなっただけだ。
親でも親戚でもないおばちゃんとしては、ここが引き際だ。
でも、最後にどうしても言いたいことがある。
「どんな理由があっても、職人さんが丹精込めた物に当たって壊していい理由にはならないわ。もうしないでね」
陽子さんの言葉に返事はなかった。
陽子さんは床に散らばった髪飾りの欠片を拾い始めた。陽子さんが目に付く所の欠片を拾い終わるまで、カトリーヌは黙って下を向いていた。
ーあとで箒をかけないと、細かい破片がまだあるわよね。
欠片を拾い終わり腰をあげると、カトリーヌは扇を握りしめ青い顔をして何か言いたそうに眉を寄せていた。
「あぁ、他の人には私の手が当たって落としたってことにしておくから安心して」
鏡に映る赤い線を見ながら陽子さんは微笑んだ。
数日陽に当てなければ、跡も残らないくらいのかすり傷だ。
「………」
カトリーヌは青いながらホッとしたような顔をして何事か呟いた。
ーん?
「………って言ったのよ。もう帰るわ」
「……そう。気をつけてね」
目も合わせず、自分で扉を開けて出ていったカトリーヌを陽子さんはその場で見送った。
カトリーヌが呟いた言葉は「ごめんなさい」なのか「ありがとう」なのかわからない。もしかしたら「これで恩を売ったなんて思わないで」かも知れない。
でも、まぁいいかと思いながら髪飾りの欠片をディスプレイに使ってあったハンカチに包んだ。
ー他人様の娘さんには冷静に言えた方かもね。薫の時にはこっちも若かったし、親としても初めてだらけで頭に血がのぼってぎゃんぎゃん言い合ったわね。
今の自分だったらあの時の薫を冷静に叱れるだろうかと考えてみたが、きっと同じようにぎゃんぎゃん言い合うに違いないと、陽子さんはくすりと笑った。




