392 お兄様と兄さん
輿入れの時に皇后ローザリンデから渡された閨の指南書と共に入れられていた黒い背表紙のノートを、今回の招待に向けて陽子さんは一人読み返していた。
要注意人物リストの中にダランベールの名前はあったが、フリードリヒとエリザベートの名前はなかった。
マリアに彼らのことを尋ねると、彼らは皇帝派の妃と家の出身で幼い頃より次期皇太子と皇太子妃候補として目されていた人物達と聞いた。
今回の訪問にあたってのローザリンデからの手紙にはダランベール侯爵の事もカトリーヌについても、なにも触れられいない。
ただ、「良い機会だから、フリードリヒとエリザベートとも親交を深めると良いわ」とだけ、書かれていた。
フリードリヒ達もローザリンデからそう言われているのか、出迎えの時からとても親しげに接してくる。
エルンストの治世はまだ長く続くだろうが、次代の皇帝となるフリードリヒともバルクの今後の為に仲良くした方がいいよねと、陽子さんも思う。
ただ、問題はカトリーヌだ。
片方だけと仲良くします、貴女とは仲良くできませんという態度をとることは表立ってできない。公の場でフリードリヒをお兄様と呼ぶなら、当然カトリーヌもお姉様と呼ばねばならなくなる。
ー親戚にも会社にもあるあるよね。片方は良いんだけど、もう片方に難あり。それがセットになっている人間関係って。
難しい。
でも、なんとか切り抜けないと。
ー要注意人物は以前知らせてある。お手紙で仲良くするといい人達は知らせてきた。両方に書かれてないって事は…。皇后様達にとってカトリーヌ様とは仲良くしてもしなくてもいい。どっちでもいい…おまかせって事よね。
マリアもアルヘルム達もはっきりとは言わないが、カトリーヌは要注意人物なのだろう。自分の印象でも初対面でのカトリーヌの印象はあまり良くなかった。
ー君子危うきに近寄らず…よね。でも、身分があると寄ってきちゃうんだろうけど。とりあえずフリードリヒ様とカトリーヌ様とセットで会うのは今回だけのはず。だったら…。
「ありがとうございます。でも……、お会いしてすぐに皆の前で『お兄様』と呼ぶのは気恥ずかしくて…。少しずつ練習しながらお呼びしてもいいですか?」
そう、『ここだけよ』作戦だ。
陽子さんは頭の中でローマで休日を過ごした王女様をイメージしながら、彼女のような笑顔をつくる。
あざとかわいいに上品さを足した王女様バージョンである。
素の自分だったのなら、それこそ小っ恥ずかしい表情だが今のアデライーデの美貌ならできるはず!と、頑張った。
それでも、お兄様なんて言葉を前世の自分の兄にも言ったことがない。他人様の兄をそう呼ぶ事はあってもだ。
お兄様という言葉に、ふと頭の中で浮かんだ冗談ばかり言っていた実兄の若い時の顔が、フリードリヒに重なった。
ちょっと困った事を助けてもらうと「頼れる兄だろう? お兄様とお呼び!」と何故かオネェ口調になり、ゴツい体でひょうきんなくねくねダンスを踊っていた、兄の崇。
ーダメよ! 崇兄さん、今出てこないで!
陽子さんは、頭に浮かんだ実兄の顔をぱたぱたとかき消す。
「フ…フリードリヒ…お兄様」
顔を赤くしたアデライーデが、隣のフリードリヒにしか聞こえない小声でそう呼ぶと、フリードリヒはくすりと笑った。
「そうだね、私達は兄妹と言っても話をするのは初めてだからね。無理に皆の前で言おうとしなくていいんだよ。今聞けただけで十分だ」
フリードリヒはアデライーデが照れていると思ったようだが、陽子さんは頭の中の実兄を追い出すのに必死だった。
ーダメよ、陽子。崇兄さんとフリードリヒ様を紐付けしたら…。別人よ、別人! 顔も体格も全く違うじゃない! 変に紐付けして何か口走ったら不敬罪だし、国際問題よ!
『お兄様と言ったらフリードリヒ様、お兄様と言ったらフリードリヒ様』と陽子さんは間違えないように頭の中で念仏を唱えるように繰り返し、頭に刻み込む。そして、一呼吸おくためにワイングラスに手を伸ばした。
フリードリヒは、自分の願いにくるくると表情を変え挙動不審になったアデライーデを可愛いなと思ってみていた。
フリードリヒの母は早くに妃として入内し、すぐに自分を産んだ。アデライーデの母であるベアトリーチェが妃として迎えられた頃には弟の出産直後だった為、顔あわせの茶会は当たり障りのない会話で短時間だったと聞いた。
二人の皇子を産み、既に自分が皇太子最有力候補と見られていたので母の関心はベアトリーチェにもアデライーデにもなく、公式の場にも欠席がちだったベアトリーチェとは自身の成人の披露目の時に、短い挨拶を受けたくらいで印象には残ってなかった。
「ところで、アデライーデはどうして卵を燻製にしようと?」
「それは、料理人に聞いたところお魚やお肉、チーズは燻製があると聞いて…、だったら卵も燻製にしたら美味しいかと思って作ってもらったんです」
念仏を唱えていた陽子さんは、フリードリヒから無難な話を振られてそれに飛びついた。燻製は古くからある保存方法だが、なぜか現代でもヨーロッパには燻玉はあまりなく、酒のつまみに出したら大好評だったからだ。
そして燻製たまごの話を皮切りに、クリスタルガラスには触れず当たり障りのない炭酸水やフライドポテトや魚醤の話を繰り広げた。
ー父が同じでも、母が違うとこれほど印象が違うものなのか。
フリードリヒは、楽しげに話すアデライーデと円卓の対面にいるカトリーヌをちらり見比べる。
同腹の兄弟は弟だけで、同じ離宮で育った弟は弟で可愛いと思っていたが、最近少し生意気である。異腹の弟妹達とは母方の家門の関係で一線を引いての付き合いがあるが、実弟以外を可愛いと思った事はなかったからだ。
陽子さんのゴツくてひょうきんな兄、崇さんのイメージは宇梶剛士さんです。




