388 花満つる寝室と時を告げる鐘
今回は、刺激が強いかもしれません…
バシッ!
新婚の初夜の寝室に平手打ちの音が響く。
頬を打たれても顔色一つ変えないエリアスが、冷たくカトリーヌを見下ろした。
その日の午後、新公爵夫妻の新居となる小宮殿で大勢の客を迎え華やかな結婚披露宴が行われていたが、宵闇が迫る頃その客達を送り出し、昼間の喧騒は嘘のように小宮殿はしんと静まり返っていた。
いつもは主人達の近くに控えている侍従や侍女も寝室から遠く離れた使用人部屋に控えていて、当主から呼ばれるまでそこにいる手筈になっている。
カトリーヌは長かった披露宴の疲れをゆっくりと癒し軽食をとってから、時間をかけてお風呂で磨き上げられた。そして、初夜用の薄い夜着を着てメイド達から寝化粧を施され夫婦の寝室に案内された。
「暫くすればご当主様が来られますので、奥様は暖炉の側のソファでお待ち下さい」と、言ってメイド達は下がっていった。
新婚の夫婦の寝室らしく、部屋には客人から贈られた花がところ狭しと飾られている。春とはいえ夜にはまだ肌寒く、火を入れられた暖炉で暖められた部屋の中は花の薫りで満たされていた。
暫く待つが、エリアスは現れない。
メイド達も侍女達も部屋にはいない。カトリーヌは仕方なく夫婦の会話用に用意されたワインを自ら注いで、ソファに座って不機嫌にエリアスを持っていた。
静まり返った小宮殿のどこかで、柱時計が昨日の終わりを告げる鐘を鳴らした。
その鐘の音が鳴り終わってからエリアスは黒い光沢のあるガウンをきっちりと着込み、ノックも無しで寝室に入ってきた。
「少々遅れました。どうしても昨日中にサインをせねばならない書類があったので」
貴族の笑みを浮かべたエリアスに、カトリーヌは先ほどのまで不機嫌はどこに行ったのか、取り繕うように澄ました顔をした。
カトリーヌも嫁ぐ皇女として、オブラートに包まれた初夜の心構えの教えは受けている。教えてくれた老女官は「皇女様ですので、大事にされます。閨事は全て殿方の導くままにされますように。公爵様と経験を重ねれば自然とわかります」と微笑むだけだった。
貴族令嬢が読む恋物語を読んでも詳しくはわからない。優しく抱きしめられて口づけをする以上の事は書かれてなかった。
それにエリアスは、婚約以来手袋の上から手の甲への儀礼的なキス以上のことはせず、抱擁もしなかったからだ。
ただ、初夜にはそれ以上の何事かがあるのだけはわかる。
近づいてくるエリアスにカトリーヌはかつてない緊張をし、なにを話していいかわからず目を逸らして、いつものように頭に浮かんだ不満を口にした。
そうすれば、相手はいつも自分を丁寧に扱うからだ。
「花嫁を待たせて良いと思ってるの? まして皇女の私を待たせるなんて、夫として失格ね」
「夫人。先ほどの十二時の鐘で貴女は皇籍から離れています」
エリアスは、感情の読めない笑顔で暗に「貴女はもう皇女ではなくなった」と、カトリーヌに告げた。
そう。宗教上は神の前で結婚の誓いをした瞬間から夫婦となる。だが、帝国法上では降嫁したその日の終わりまではカトリーヌは皇族なのだ。
元は、外国に嫁ぐ皇女の身を初夜まで守る為に作られた古い法である。古い時代には床入りの証をもってその国で身分が確定されたからだ。
エリアスは運命に耐えよく自分を抑えているが、カトリーヌと二人きりで初夜を迎える。十二時までにエリアスとカトリーヌの間に諍いが起これば、離宮から連れてきた侍女達によって伝えられた帝国から何某かの介入を受けるかもしれない。
万に一つの可能性を考え、ヒンケルはエリアスをカトリーヌの皇籍が無くなるまで待たせていたのだ。
「それがどうしたと言うの? 皇女でなくなったからといっても、私が皇族に準じる公爵夫人になった事に変わりはないわ。それを、あの女もやっとわかったんでしょうね。さすがに今日の披露宴には現れなかったわ」
そして、カトリーヌは触れてはいけない話題を口にした。
ユリアは去年デビュタントを果たした。
その年にデビュタントを迎えた令嬢は婚約者の有無に関わらず、これからの社交の顔つなぎの為に出来るだけ多くの茶会や夜会を催し互いに招待しあうのが普通である。
そして、エリアスとカトリーヌも同じく去年婚約を公表している。
表向き円満に解決している「秘められたる恋」の貢献者であるユリアを、ダランベール派閥の家は招かない訳にはいかない。そしてユリアも出席しない訳にはいかなかった。
だからこそ、大きな茶会や夜会でカトリーヌとユリアは度々顔を会わせる事となったのだ。
さすがにクリンガー家は、大きな茶会や夜会は催さずにいたが。
「あの女とは、クリンガー伯爵令嬢の事でしょうか」
「そうよ。あの女は貴方に未練があるの。私には分かるわ。貴方も迷惑に思っているんでしょう?」
グラスを傾けながらそう言った時、カトリーヌはエリアスの顔を見ていなかった。
「私にはわかりませんね。別れを告げて以来、令嬢とは挨拶以外の言葉を交わしてませんので」
エリアスは、低い声でそう答えた。
「あの女は、お祖父様に贈られた領地にさっさと引っ込んでいればいいものを、図々しく茶会や夜会に出てきていたわ。あわよくば第二夫人や愛人の地位を狙うために貴方に会いに来てたのよ。じゃなければ、あんなに恥をかいても出てくるはずないじゃない?」
カトリーヌがあの夜会以来ユリアに当たり続けていたのは、ダランベールからユリアに個人資産として贈られた領地に追いやる為だった。
気に入らないメイドや侍女にきつく当たれば、いつの間にかに居なくなっていた。だから、ユリアもそうすれば居なくなると思っていた。
祖父からも母からも「クリンガー伯爵令嬢に関わらず、彼女についての話は離宮の者以外には誰にもしてはいけない」と言いつけられていたが、顔を見たらどうしても我慢できずに口から言葉が漏れていた。
離宮の侍女やメイドに対するような態度は流石にとらなかったが、それでも世間的には自分の為に働いてくれた派閥の令嬢に対する態度ではなく、それを見る周りの貴族女性らが自分をどう見ているかなど、カトリーヌの頭の中にはなかった。
カトリーヌはほんの少し、嫌味を言っていたつもりだった。
だから、誰も自分の行動を止めなかったと思っていた。
エリアスがそれを咎めることはなかったし、彼からユリアの事を話すこともなかったので、エリアスにとってもユリアはその程度の相手だったと思っていた。
少し嫌味を言うと、最後にはエリアスがカトリーヌをダンスに誘ったり取り巻きの令嬢達が話題を変えたりしていたからだ。
幼い頃より周りから皇女として傅かれ、早くに年上の皇女達は輿入れをしていて、カトリーヌは、その小さな世界の中心にいた特別の存在だった。
当然、礼儀正しく自分に接し自分を選んだエリアスにとっても自分は特別なのだと疑いもなく思っている。
「言っておくけど、あの女だけでなく第二夫人や愛人なんて許さないわよ」
ーだから、私だけだと言いなさい。
そう言うと、カトリーヌは恋物語のような甘い返事を期待してソファから立ち上がり、笑いかけながらエリアスの顔を初めて見た。
「ユリアを…、クリンガー伯爵令嬢を第二夫人、ましてや愛人などにする気はない。そして、そういうものを持つ気はない」
言葉だけだと、望む通りの言葉だった。だが、返ってきたのは冷たい声音と、無表情な顔と視線だ。
ーえ?
「夫人、下らない話より初夜を済ませましょう」
そう言ってエリアスはガウンを脱ぐと、今までカトリーヌが座っていたソファに投げ、カトリーヌの腰を抱いて大股でベッドに歩き出した。
その時、初めてカトリーヌは理解した。
エリアスにとって自分は特別でもなんでもなく、ただ政略の相手としてしか見ていないことを。
恋物語にあるような甘やかな雰囲気も抱擁も口づけも言葉もなく、ただ義務としての初夜を済ます為に寝台に向かっているのだと。
ベッドの前に来て布団を剥ぐと、エリアスはカトリーヌの腰に回した手を緩めた。
その時に、カトリーヌは怒りとも哀しみとも恐れとも裏切られたとも言えない気持ちが爆発して、エリアスの頬を激しく打った。
「私に触る事は許さないわ!」
「……初夜を拒否されると?」
カトリーヌの叫びにも怯まず、エリアスは淡々と問う。
「触らないで!」
カトリーヌは渾身の力を込めてエリアスを突き飛ばすが、カトリーヌの力でエリアスは揺らがない。逆にカトリーヌがベッドに倒れ込んでしまった。
「仕方ないですね」
エリアスはそう言うと、ベッドサイドテーブルの上の壁に飾られている護身用の小刀を手に取った。
「ひっ…」
思いもかけないエリアスの行動に、カトリーヌは震えて声も出せずに、ただただベッドの上で口を押さえるしかできなかった。
エリアスはそんなカトリーヌに目もくれず、左袖をまくると、その小刀を腕に突き立てた。
鮮血がエリアスの腕を伝い、指から落ちた血は真新しいシーツにぽとりぽとりと赤い花のように散った。
「初夜が成らなかったなどと不名誉な噂で、夫人に恥をかかすわけにはいきません。明日の朝メイド達に伝えますので、それを片付けるように言ってください。夫人も私がここにいると休めないでしょうから、私は自室に戻ります」
エリアスはそう言うと、他に血がつかないように袖を元に戻し、小刀の先を袖口で拭うと壁に戻した。
そして青い顔で呆然とシーツの赤い花を見つめるカトリーヌに、エリアスは自分のガウンをかけた。
「お風邪を召しませんように。明日の朝食でお会いしましょう」
形だけの優しい言葉を投げつけ返事を待たずに続き部屋の自室に向かうエリアスは、数歩歩いてから思い出したように振り返った。
「夫人、気が変わったのならいつでもお声がけを。夫人のたっての頼みであれば、当主としての義務は果たします」
エリアスのその言葉は、カトリーヌの女としての矜持を逆なでするように深く爪を立てていく。
「…な…なぜ……」
「なぜ? 全ては、夫人が望んだことです」
絞り出すようなカトリーヌの問いに、エリアスはそう答え静かに夫婦の寝室を出ていった。
そう、全てはカトリーヌの「バルクへ嫁ぐのは嫌だ」という望みから始まっている。その一言を発端に、さまざまな思惑の糸が紡がれ動き出し、本来あるべきエリアスとユリアの運命の糸は切れた。
「何が……いけないの……私にふさわしいものを望んだだけなのに…」
あとに残ったのは、ただカトリーヌのすすり泣く声だけだったが、それは誰の耳にも届くことなく寝室の壁に消えていった。
翌朝、ヒンケルに命じられたメイド達が夫婦の寝室に入り、泣き腫らした目をしたカトリーヌに声をかけ浴室に連れて行った。
カトリーヌはいつもと違い、ただ黙って身体を洗われ身支度もそこそこに「一人になりたいから下がりなさい」とメイドも侍女達も遠ざけ自室に籠もった。
戸惑う侍女達にヒンケルは「初夜を済ませた奥方様にはよくある事ですので、ご心配なく。落ち着かれるまで、そっとしておきましょう」と、声をかけた。
未婚の侍女達はヒンケルの言葉を信じ、カトリーヌからの呼び出しに備え、それぞれの部屋に戻っていった。
一人のメイドがシーツを抱え、洗濯部屋へと向かう。途中、誰もいない廊下で一人の臨時に増員された侍女とすれ違った時に足を止めた。
「どう?」
「血だけね。閨事の跡は無かったわ。シーツにも体にもね。そっちは?」
「『壁』も同じだったわ。まぁ、未通女な侍女達は無事に済んだと両方に報告するでしょうけどね」
「『お父様』によろしく」
歩き始めたメイドを見送ると、ローズは「いつまでここにいろって言われるのかしら」とつぶやき、上司に報告する手紙を書きに自室に戻っていった。
これで、ちょっと辛いお話は一旦終了です。
ずいぶん久しぶりのローズの登場でした。
次回からいつものバルクのお話に戻ります!




