387 通じ合う心と恋路の果て
ーユリア……
衆人環視の中でユリアが僕に「愛している」と告げてきた。
思いがけないユリアの行動に、僕の体は一瞬強張った。
握り込むような手で頬を摘むような仕草は、僕が幼い頃によくユリアをからかって怒ったユリアの膨れた頬を摘みながら謝っていた時にしていた仕草だ。
「ごめんね、もう言わないよ」
「いつもそう言うけど、すぐに意地悪言うじゃない!」
そう言ってユリアは膨れたまま僕の耳たぶをつまみ返す。
そうしてお互いの柔らかなところに触れていると、くすぐったさからどちらともなく笑いだし、自然と仲直りをしてまた優しい時間が流れ出した。
意地悪をしたくて言っていたんじゃない。
ユリアに触れていたかった。幼いとはいえ貴族の子供としてのマナーを厳しく躾けられた僕は、ユリアと手を繋ぐ事しかできなかったからだ。
僕達が正式に婚約し口づけを交わすまで、時々僕はユリアをからかって彼女の頬に触れていた。
いずれユリアと公衆の中で再会を果たすだろうと言うヒンケルの言葉に、何度もその場面を頭の中で想像してきた。
僕の頭の中で、冷たい僕の態度に傷つくユリアや僕に見切りをつけて蔑むような目で見るユリアを相手に、何度も砕けた仮面をつけ直す訓練をした。
『決してエリアス様から行動を起こしてはなりません。エリアス様の目線や表情、態度の一挙手一投足まで周りの貴族は見ております。ユリア様を守るためにも付け入られるような行いはお控えください』
きつくヒンケルに言われていたが、ユリアは僕に愛を告げてきた。冷たく挨拶をし僕らの未来を奪った皇女の横に立つ僕に…。僕達だけがわかる方法で。
僕は髪をかきあげる仕草をしながら、軽く耳たぶに触れる。
「僕も愛している」との万感の思いを込めて。
僕の仕草を目の端に捉えただろうユリアの頬の赤らみに、僕の仮面が砕けそうになるのを必死で堪えた。
ユリアの心は離れてなどいなかった。
僕が冷血者の仮面をかぶろうとも、ユリアはその仮面の下の僕を見ていてくれた。
例え言葉は交わせなくとも、例え見つめ合えなくとも、耳に触れれば僕は彼女の愛を感じることができるだろう。
そんな幸せの余韻に浸る間もなく、何故か殺気立った皇女がユリアの方に動こうとしたのを引き留めた。
皇女に公衆の面前で打たれたが、おかげで僕は仮面をつけ直すことができた。
クリンガー伯爵に護られたユリアを目の端に入れながら、僕は皇女をその場から連れ帰った。
「ただいま戻りました」
「座りなさい」
屋敷に着くと、ヒンケルに出迎えられ父の書斎に呼ばれた。
あれから父は出掛けることが多く、僕も婚約式や婚約披露宴の準備ですれ違う事が多かった。まともに顔を合わせるのは久しぶりかもしれない。
「弟のところからレイノルドを養子で貰い受ける。時期はお前に爵位を譲った後だ」
「レイノルドを?」
レイノルドは父の弟である伯爵家の三男で、今年十歳になる。ひとりっ子だった僕が弟のように可愛がり、ユリアにも懐いていた利発で賢い従兄弟だ。
「うむ。領地に連れていきクレーヴェ侯爵家の当主教育を施す。お前にも爵位を譲る前に、まだ施してなかった当主教育をする」
「レイノルドにクレーヴェ侯爵家の当主教育を? それに、なぜ急に養子を?」
「お前が子を持つことは無いからだ」
「は?!」
僕は父の言う事の意味がわからなかった。婚姻すれば家の存続の為に子をもうける事を求められる。義務と言ってもいい。僕も皇女と褥を共にする覚悟を決めている。
それなのになぜ父は「持つことはない」と、決まっているかのような事を言うのだろう。
父は「こちらにおいで」と言い執務机に向かった。代々受け継がれている黒檀の机は当主しか触る事を許されず、手入れも当主自らが行っている。
父はその執務机の前に立つと、小引き出しのハンドルを回しスッとそれを引き抜いた。そして流れるような手順で次々と隠し細工を開けていき、最後に隠された小さな引き出しからおもむろに鍵を取り出し、造り付けの本棚に向かった。
数カ所に隠された鍵穴に差し込んで、本棚に偽装された隠し扉を父はあけた。
驚きすぎて言葉の出ない僕に構うことなく、父は蝋燭から火を移したランプを持って僕を手招きした。
中は人が二人通れるぐらいの回廊のようになっており、その両脇の棚にはずらりと本や紙ばさみが並べられている。
ぐるりと書斎を取り囲むような回廊は、窓がないのか少し重たい空気と僅かな埃臭さがした。
回廊の一番奥までくると、父は足を止め一冊の本を手に取った。
「二代目の日記だ」
手渡された日記を手に取り、何度も読み返され手垢のついた黒い革表紙を開いた。
『権力に近寄りすぎず、時流と思惑を読み、時には踏まれる麦になろうとも、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、土地と血脈を守るように』
目に飛び込んできたのは、古い文体で書かれた一文だった。
「初代は伯爵位から武功により侯爵位を賜った。国が平定され、それにより国内は平和になったが、それ以降宮廷内での権力闘争は熾烈を極め、初代はそれにも打ち勝ってきたが、それにより二代目は教訓を学ばれた」
繰り返される権力闘争で、興っては戦い滅びてゆく家や派閥。一瞬の栄華を誇り散りゆく花のようなそれらを、二代目は幼い頃から初代の背中越しに見ていた。
二代目が爵位を譲られた頃、武功で爵位を得た家の半数が、王の不興を買っての失脚や周りの貴族との不和で勢いが陰り表舞台から降りていった。侯爵位は王家の傍流としての公爵を除き、臣下の最上位の爵位だ。動けば人の目に立ち自らが動かなくとも、何がしかの権力闘争には巻き込まれる。
初代はそれを、自身の太刀筋と同じように力で立ち向かい、天才的なカンで駆け抜けてきた人物だ。国が乱れている時に時代はそのような英雄を生む。
だが、そのような人物が続けざまに生まれ落ちるはずもない。二代目は個人の才能から情報戦で家を長らえる事に切り替えた。王の側に近寄りすぎても、代替わりでひっくり返される事も目にし、二代目は権力と程よい距離を置きつつも、離れすぎない派閥と手を結んだ。
「我が家だけが建国当初より残る唯一の侯爵家で居続けるのは、ここにある膨大な祖先が書き残した日記のおかげだ。ここには代々の当主夫妻が宮廷内で見聞きした事が全て書き残されている」
そう言って、父は不自然に少しだけずらされた一冊の日記を棚から抜き取ると書斎へと足を向けた。書斎に戻りソファに座ると、父は持ち出した日記の栞が挟まれたページを広げ僕に差し出した。
そして僕は、遠い昔に恋をして公爵夫人になった皇女様に囁かれた噂と、その結末を知ることになる。
エリアスが受け継いた机のイメージ
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カラクリだらけのデスク。どれだけ秘密の引き出しがあるのか!
バーリーハウスの隠し扉
https://burghleyantiques.com/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%9A%A0%E3%81%97%E6%89%89/




