383 ガラスの仮面と紫煙
「どうだね。我が領のワインは?」
ダランベールの話は自領のワインの自慢から始まった。当たり障りなく会話が進み、二杯目のグラスを空ける頃、思い出したようにダランベールが僕に仕掛けてきた。
「ところで君はこの話を、どう思ったかね」
「とても、驚きました。私に公爵が務まるのかと。それも特例と聞いて、驚きを隠せませんでした」
手に持ったグラスを見つめ答える僕に、ダランベールは「ほぅ」と呟いた。
『エリアス様、長く政敵と鍔迫り合いをし、場数を踏んだ経験を持つダランベールを侮ってはなりません。奴と比べたら、貴方様は尻に殻をつけたひよこと変わりません。まずはそれをお認めなさい』
『問いには、事実のみを答えるのです』
ダランベールの侍従が3杯目のワインを僕のグラスに注いだ。それと同時にダランベールは侍従に目をやると、侍従は刻みタバコをつめたパイプをダランベールに手渡した。
紫煙が奴の口からゆっくりと吐き出される。
「君には、なんと言ったか。…クリンガー伯爵令嬢と長く婚約をしていたようだが?」
「ユリア・クリンガー嬢ですね。先日別れを告げてきました」
『エリアス様。まだこの現実をご自身の中で消化しきれていない貴方様は、社交術で奴に完璧に顔を隠すのは無理でございます。ですので、別人の仮面を被るのです』
僕は右手で髪をかきあげ、権力に目がくらんだ冷血者を演じる準備を終えた。
「幼い頃から仲が良かったと聞いたが? すんなり別れられたのかな」
「すんなり…とは言い難いですね。幼なじみですし愛情も、無かったとは言いません」
まだ目の怒りを隠せない僕は、奴の目を見ないようにグラスを手に取り口をつける。
「ただ、クリンガー家から恨みを買わないようにできるだけ穏便に済ませたいと、彼女を宥める努力をしました」
「ほぅ。白紙撤回ならば両家に瑕疵はあるまい。両家の当主も納得済みだが?」
「私の…いえ、新公爵家の始まりに余計な禍根はできるだけ残したくないからです。当主や家門の後継なら、私の選択に納得はするでしょう。貴族男性であれば陞爵の機会は万難を排してでも、掴み取りたいものですよね」
何度も練習した貴族の笑みを浮かべ、奴のパイプに微笑みかける。
「しかし、女性の茶会で元婚約者の周りから、私がぞんざいに彼女を扱ったと噂が出れば、今後の公爵家の体面に傷が付きます」
栄誉や体面を気にする野心家の貴族ならば言うだろうと思う言葉を口にする。
ヒンケルから受けた吐き気を催す訓練に耐え、奴の手駒として扱いやすい「栄誉や体面を気にする野心家の若い貴族」の仮面は、奴の目にどう映るだろう。
「ふむ。今後の公爵家の体面か」
「ええ」
僕は、続けてグラスに口をつけた。
『ダランベールの周りには取り入ろうする輩で溢れています。そういう者に囲まれているダランベールは、見慣れた行動をする者に安心するはずです。その心理を利用して扱いやすい若輩者として奴の懐に入るのです』
「お伺いしても良いでしょうか?」
「……なんだね」
僕はまだ、奴に向かって笑顔を作れない。だからグラスに向かって言葉を紡ぐ。奴は大きくパイプを吸い込んで紫煙を吐きながら、鷹揚に聞き返した。
「カトリーヌ様は、私の事を気に入ってくださってるのでしょうか」
「もちろんだ。クレーヴェ家の家格と長い歴史、君の容姿も降嫁先として相応しいと思ってらっしゃる。ただ、君が少し年下なのを気にされてるようだ」
「そればかりはどうしようもできませんが、皇女様に相応しく努めたいと思います。皇女のお好みをご教授願えますか。できれば、侯爵から他の方々とのお付き合いも学びたいと思っています」
グラスを置いて奴の目を見る。精一杯感情を無くして、願いたくもない事を口にした。
「……君は真の貴族のようだ。皇女様の夫君として相応しくあるべく、私の元で学ぶといい。ところで、君は煙草を嗜むのかね?」
「経験がある程度で、嗜む程では…」
「それはいかんな。紳士の社交にワインと煙草は欠かせぬ。これからの為にも覚えるといい」
「はい。そうします」
ダランベールの言葉と同時に客用のパイプの支度をした侍従が、僕の目の前で新しい口金を取り付けた。
ダランベールは、自分の眼鏡にかなうかどうかという見込み客に自領の貴腐ワインを出す。そして気に入った相手にはパイプを勧めるのだとヒンケルから教わった。
パイプ用の短い蝋燭から細長い軸に火を取り、慣れない手つきでパイプの中の刻みタバコに火をつけ、口の中で紫煙を回し、口から吐き出す。
「こほっ」
慣れない煙が少し気管に入った。
「失礼しました」
「気にすることはない。エリアス殿はまだお若い、これから学ばれるといい。煙草も公爵としても。そうだな。まずはカトリーヌ皇女の好みであるが…」
そうやって話しはじめたダランベールに、僕は初めて野心家の貴族というガラスの仮面の下から、本当の笑顔を奴に向けた。




