381 決意と貴腐ワイン
『お前を愛することなど、生涯ない! 私が真実愛する女性はユリア・クリンガー伯爵令嬢、ただ一人だ!』
今まで何度、そう心のなかで叫んだことか。
だが、今自分は神の前で偽りの誓いを立て愛する人とは違う女を妻に迎えようとしている。
隣には、豪華で華やかなウェディングドレスに身を包んだ麗しい皇女が立っていた。
元々政略結婚がほとんどの高位貴族で、幼い頃から想いあえる相手と婚約が結べたのは奇跡に近い幸運だった。父が派閥の筆頭であるダランベール侯爵に呼び出された、あの日までは。
あの日、父からユリアと僕の婚約は「カトリーヌ様と秘められた恋」の目眩ましのための偽装婚約だったとなると書斎で告げられた。
「そんな馬鹿な! 公式な茶会で挨拶する程度の皇女と僕が? ユリアとの結婚式は来年春なのですよ?」
「式の相手は、クリンガー伯爵令嬢ではなくカトリーヌ皇女殿下になる」
「皆、僕とユリアの結婚式の事を知っているんですよ?!」
「まだ正式な招待状を出す前だ…。すまない。我が家門のほとんどがダランベール侯爵家と付き合いがある。聞き分けてくれ」
先の戦争で領地の小麦畑に甚大な被害を受けた親族は多い。暗い顔で懇願するように告げる父は家門の長としての顔をしていた。
何も言えず、乱暴に書斎の扉を叩きつけるように閉めることしかできなかった。
そうやって、僕とユリアとの婚約は派閥の力で白紙撤回させられた。
愛娘の成人を家で祝いたいからそれまで待って欲しいと言うクリンガー伯爵の言葉を聞かずに、自分が成人した時に結婚していればこんなことにはならなかったかもと頭に浮かぶが、あの時は誰もこんな未来を予想だにしていなかった。
最後に二人だけで会った庭園で、やつれきった顔で泣きじゃくる愛しいユリアを強く抱きしめ何度も唇を重ねた。そのまま二人だけで何処かに出奔してしまいたい衝動に突き動かされたが、貴族令嬢としての彼女の将来を考えればそんな事はできなかった。
「このまま時が止まればいいのに!」
何度もそう言って泣くユリアを強く抱きしめ「すまない」と繰り返すしかできない弱い自分を呪うしかできなかった。
長い時間だったか、あっという間だったかわからない時が流れ、お互いの従者が暗い顔で迎えに来た。
「エリアス。私が愛するのは貴方だけよ。生涯誰とも…」
そう言いかけたユリアの唇を、口づけで塞いだ。
「ユリア、僕は君が結婚をする事を望む」
この唇に僕以外の誰かがふれる…考えるだけで気が狂いそうだったが、絞りだすように言葉を口にした。
「ど…うして…」
僕の言葉を聞いて目を見開くユリア。その瞳に哀しみの色が濃くなっていった。
貴族令嬢にとって結婚は義務だ。
その義務から逃れるには修道院に入るしかない。クリンガー伯爵がそれを許すとは思えないが、一度修道院に入ってしまえば生涯彼女に会うことはおろか、院によっては家族以外の手紙のやりとりも制限される。
これは身勝手な我儘だ。
ユリアになら、いずれどこからか縁談が持ち込まれるはずだ。そうなったらユリアを陰からでも見守れる。触れられずとも声をかけられずとも、愛しいユリアを遠目からでも見ていたい。
それに、ユリアなら政略の相手にも夫人として大事にされるはず…。
「君は…子供が好きだろう? たくさんの子供に囲まれて幸せになって欲しい」
「それは…、それは! 貴方との…」
もう一度、ユリアの柔らかい唇を塞いだ。
貴族女性が結婚すれば子どもを生むことは求められる。
ユリアに誰かと愛を育んでほしいという言葉は言えなかった。そうなる方がユリアの幸せであると思うが、どうしてもどうしても言えなかった。
なぜ僕がユリアに自分以外の男の妻になれと言わなければならないのかと怒りが沸くが、必死に顔を作る。自分でも笑顔には程遠い強張った表情だったろうと思う。
「僕は…、それを見守りたい」
「エリアス…」
ユリアは僕の頬に手を伸ばし、気が付かないうちに僕の頬を伝っていた涙を優しく拭って軽く僕の耳たぶを指で挟む。僕はユリアの涙に濡れた頬を拭い、軽く指で彼女の頬を摘んだ。
最後に強く抱きしめ合い時が止まるような長い口づけを交わし、生木を裂かれるようにユリアと別れた。
数日後、父に連れられダランベール侯爵と会った。持って回った言い方をしていたが、要は皇女の体面を保つために僕に「お飾りの夫」になれということだ。
皇女降嫁にあわせるように家は陞爵され、結婚直前に僕は襲爵し公爵となることを告げられた。皇女が結婚後に公爵子息夫人を名乗るより公爵夫人を名乗りたいというくだらない理由だ。
父はそれに伴い古い使用人達を引き連れて領地に居を移し、新居となる屋敷には皇居から皇女が引き連れてくる侍女達とダランベール侯爵が用意した使用人が送られてくるらしい。
『美しい鳥かごに囲った鳥が逃げないように、ご丁寧に監視人まで用意するのか』
「侯爵のお心配りに報いるように、務めます」
顔をつくるが、少しこわばっているのが自分でもわかる。
「エリアス殿はまだお若い。義理とはいえ私は君の祖父となる。わからぬことがあれば家令を通して尋ねるがいい」
少し二人で話がしたいと誘われた談話室で出された極上の貴腐ワインの甘さが、ねっとりと喉を降りていった。




