380 予感と春の遠足
「昨日は楽しんだか?」
執務室に入ってきたアルヘルムにタクシスは、書類を見ながら問いかけた。
「あぁ、天気も良くて風もなかったからな。お前も次の休みにメラニアと行くといい。まだしばらく盛りだぞ」
アルヘルムは昨日、去年アデライーデと約束したネモフィラの丘に出かけてきていた。少し難しい顔をして執務室に入ってきたアルヘルムは、タクシスから昨日の話を振られると顔を緩めた。
アルヘルムは持っていた書類の半分をタクシスに渡してソファに腰を下ろす。アルヘルムが手にしていた書類は過日各国に送ったフォルトゥナガルテンへの招待状の返信リストだった。
最近は以前のような細かい承認仕事は格段に減った。タクシスが命じた業務改革でアルヘルム達に上がってくるのは、国政を左右する大きな指針を決める書類だけになってきた。その分、じっくりと考えなければならない事案が増えてきた。
「招待状の返事が大分返ってきているな。遠方の国がいくつかまだのようだが……、ふむ。どの国も招待を受けるのか。これは忙しくなるな」
タクシスは渡された書類にざっと目を通すと、書類を持ってソファにやってきた。
「あぁ。今まで帝国から帰ってきた文官から説明を受けてきた。帝国からは第一皇子ご夫妻が陛下達の名代だ」
「うむ。近々立太子されると噂がある。身軽に動けるうちに諸国の王族や高位貴族と親交を深めるのが狙いだろう」
皇帝が帝都から離れることは無い。
だが、皇后や皇太子が陛下の名代として動くことはある。次期皇太子が公式に動くとなればそれなりの警備や準備に時間もかかるが、まだ皇子の身分であれば幾分楽に動ける。
めくるリストの中にある知った名前を、タクシスがピンと指で弾いた。
「『その他』の客にお前の元正妃候補様がいるな」
「うむ。その外祖父殿もだ。厄介だが身分から考えれば順当な選出だな。第六皇女の降嫁先である新公爵夫妻にその皇女の祖父である侯爵だ」
アルヘルムは執務室の棚から常備している蜂蜜酒の瓶をとると、二つのグラスに注いだ。
「普通、第一子が誕生するまで移動の負担の大きい外遊は避けるんだがな。先日華々しく挙式したばかりだろう?」
タクシスは首を捻りながらリストを見つめた。
貴族の新婚時期は、子作りや家門や他の貴族との顔つなぎで忙しい時期だ。それは降嫁した皇女であろうと例外ではない。運良くハネムーンベビーに恵まれるかもしれないので、領地への移動も差し控えさせる家も多い。
「今回の訪問はカトリーヌ殿下…、いやクレーヴェ公爵夫人が『陛下に賜った新公爵の名を諸国に知らしめたい』とダランベール侯爵を通じて皇帝に強く強請ったようなんだ」
「豪華な式に爵位と宮殿を賜った上にか?」
呆れたように言うタクシスに、アルヘルムは無言で肩をすくめた。
カトリーヌは皇女だからというのもあるが、母方のダランベール家門の財力を誇るような豪華な式を、皇帝から結婚祝いに賜った帝都にある小宮殿で挙げている。
クレーヴェ公爵夫人となったカトリーヌは、そこに皇宮から選ばれた侍女を何人も連れダランベール侯爵家から送られた大勢の使用人に傅かれ皇女の身分であった時と変わらぬ暮らしをしていると、帝国に置いている文官からの報告を二人は聞いていた。
「アデライーデ様とカトリーヌ様の間に隠れた交流などはなかったんだろう?」
タクシスはアルヘルムから受け取った蜂蜜酒に口をつける。
「以前聞いた話では第一皇子殿下、カトリーヌ殿ともに婚姻の披露宴で初顔合わせだったらしい。どちらも挨拶だけだったようだが……。かの方付きの侍女だったマリアにも再度確認してみるか」
アルヘルムは、ぱさりと書類を置くとグラスを口にする。
「文官の話では帝国内で『アデライーデ殿下が嫁いだからこそのバルクの発展』と囁かれ、本人の耳にも入っているようなんだ。結婚祝いを贈った使者が微妙な雰囲気だったと報告を上げてきている」
招待状と前後して皇宮でクレーヴェ公爵とまだ皇女だったカトリーヌに祝いのワイングラスのセットを贈った際、グラスを見ながら「私だったら…」と言いかけたカトリーヌの言葉に被せるように、クレーヴェ公爵が返礼の言葉を返したという。
「ふむ。面倒がなければいいが…」
「面倒の予感しかないだろう?」
アルヘルムは苦笑いをしながら、グラスを置く。
「だが、姉妹の親睦を深めたいから交流を持ちたいと言われたら断れないぞ」
「あぁ、断れないな。だがアデライーデに無理に交流させる気はない。アデライーデは一国の正妃で相手はもう皇女ではなく公爵夫人だ。こちらで線引はできる。対応は今後考えねばならぬがな。しかし、招待客の宿泊は全てライエン伯爵のところに引き受けて貰ったのは正解だったな」
「うむ。火種は持ち込まないのが一番だ」
線引はできると言ったが、アルヘルム達に皇帝の真意はわからない。アデライーデを大事に思っているのはわかるが、前例のない待遇で公爵夫人となったカトリーヌと比べてとなると皇帝の真意は測りかねる。
しばし、執務室は重い空気に包まれた。
タクシスはグラスに残った蜂蜜酒を飲み干すと、その空気を払うようにアルヘルムがアデライーデと行ったネモフィラの丘の話を振った。
「ところで、昨日は正妃様と親睦は深められたのか?」
「もちろんさ」
アルヘルムも先ほどまでの重い空気がなかったかのように笑って答える。今までどんな時でも二人はこうやって重い空気を換気してきた。考えてもわからない時こそ気分転換は大事なのだ。
「あの丘で去年の思い出を語り合ったさ。時が経つのは早いと話して、この一年の思い出を話していた」
「うんうん」
「そして、ペルレ島が見える海岸へ向かったんだ」
「ほうほう」
良いじゃないか。花の丘から島の見える海岸の散歩は、この時期の定番のデートコースだ。
「海の穏やかな時にペルレ島へ連れて行くと約束して海岸ではウニを拾って…」
「ん?」
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
「ヘレーナ殿から贈られたティロルチーズでケーゼシュペッツレを作ったり、ラクレットチーズを炙ったりして楽しめた。アルトを連れて行って良かったよ。護衛騎士達にも好評で、是非王宮の兵舎の賄いで出して欲しいと言われたよ。あの料理は遠征の時に良いな。保存もきく少ない材料で兵士の腹を満たせる。戦がないに越したことはないが、遠征の訓練にも使えると思ったよ」
「お…おう…。良かったな」
それは、ただの春の遠征訓練では?とタクシスは言い出せなかった。




