368 お願いと枕
「昨日はどうだったんだ?」
「ん。良かったな」
アルヘルムがアデライーデとフォルトゥナガルテンを訪れた翌日、執務室でタクシスがアルヘルムに尋ねた。アルヘルムはにこりと笑って答えると、読んでいた書類に決裁のサインをした。
最近書類改革が進み、以前のように山のような書類が無くなったが、その分じっくり考えなければならない案件が増えてきた。
「ん? なんだ? 感動の薄いやつだな。アデライーデ様と月の庭に行ったんだろ? もっと感想があるだろ、もしかして喧嘩でもしたのか?」
「いや、とても喜んでくれて月の庭では良い雰囲気だった。フォルトゥナガルテンも楽しんでくれて妖精達の演奏会も感動したと言ってくれた。特にフラッグショーを気に入ってたみたいだ」
「良かったじゃないか。どちらも目玉だからな」
「お前は、メラニアとのフォルトゥナガルテンではどうだった?」
タクシスはアルヘルム達がフォルトゥナガルテンに行く前に、妖精スタッフの訓練の最終チェックでフォルトゥナガルテンを訪れている。
「メラニアも設計に携わっていたとはいえ最高の夜、最高の演出を楽しんだぞ。それにいつも以上に美しかったメラニアは月の女神のようだった。フォルトゥナガルテンも貸切だったから、本当に二人で妖精の国を訪れたようで良い夜だったぞ。新婚時代を思い出して…こほん。うむ、フォルトゥナガルテンは素晴らしいと思う。
特に……、………が………で、…………の………時の…………」
「……」
メラニアとの貸切のフォルトゥナガルテンの夜を思い出し、愛妻家のタクシスがいかにメラニアと良い雰囲気になったかを話すさまをアルヘルムは『やっぱり、それが普通だよな』と思いながら聞いていた。
月の庭は、その名の通り月を楽しむ特別な庭。特に夫婦や婚約者同士ふたりきりで愛を囁く庭である。
もちろん、アルヘルムも囁いた。
アデライーデは、少し長めの口づけをすると軽く気絶したり動きがぎくしゃくするので、そこは気をつけた。あの晩は、いつもよりほんの少し進歩して、ぽぅとしたアデライーデを見れた。
でも、すぐにいつものアデライーデに戻り月の庭を出ると、アデライーデは全てのショーを目を輝かせて楽しみ、出会う妖精達に声をかけガラスコインを手渡していた。
ー妖精達も喜んでいたし、少しアデライーデと近づけたしな。つい大人として見てしまうが、まぁ…あれがあの年なりのフォルトゥナガルテンの楽しみ方だよな。
アデライーデと同じ年の頃だった自分を思い出して自分を納得させたアルヘルムは、ピーチクパーチクと鳴くでかい愛妻家のヒバリの口を、どこで止めようかと様子をうかがい始めた。
「本当に素晴らしい場所でしたわ。本当に妖精の村に迷い込んだようで、どの場所も目を瞑ると思い出せますわ」
「この大陸で、バルクの代名詞になるような所になりますね」
「きっと、大陸中から人が詰めかけますわ」
「どこも素敵でしたが、やはり『月の庭』ほどロマンチックな場所はなかったですわね」
「それはそうよ。あそこはアデライーデ様の為だけの特別な場所ですもの」
マリア達は、アデライーデをお風呂で洗いながら先程までいたフォルトゥナガルテンの事を興奮気味に喋っていた。
お付きという仕事ではあったものの見るもの全てに目を奪われ、しっかりしてないと仕事を忘れそうになるくらいであった。
「本当に楽しかったわ。すごく素敵だったわよね」
そう言ってアデライーデはお風呂からあがると用意されたワイングラスに手を伸ばした。シュワシュワと泡を弾けているスプリッツァーが、お風呂上がりの喉を潤す。
マリア達におやすみを言い、ベッドにごろりと横になる。
とても素敵な場所だった。自分がおおまかなアイディアを出したとはいえ、あれ程作り込んであるとは思ってなかった。
「設定に忠実ってすごいのね。本当に一つの世界のようだったわ」
夢の国にも何度も行った。お姫様達は物語の中で語られる姿そのままの外国人だったが、キャストは日本人だった。だから子供たちは喜んでいたが大人の陽子さんはそこでちょっぴり現実に戻っていた。
ーまぁ…この世界では日本人っていないしね。私も今は違うし…。でも月の庭の事は聞いてなかったわ。
そして月の庭のことを思い出して、顔を赤くしベッドの上を一人ごろごろジタバタした。
月明かりの下のアルヘルムはかっこよかった。元々整った顔である。アルヘルムの甘い言葉や態度にも最近少しずつ免疫がついてきてはいたのだが…。
漫画や海外ドラマでも、そんなシーンはあった。ドキドキしながら自分だったら…と想像したことは何度もあるが、いざそうなると……。
ー人間って、キャパを超えると動作停止になるって本当よね…。
油断するとアルヘルムは高い濃度の甘さを纏わせたジャブをくり出してくる。月の庭ではそれに舞台演出も神がかっていた。
月明かりの下、二人きりの神秘的な庭で甘い言葉と口づけ。風に揺れる葉擦れの音に交じる遠くからのヴァイオリンの音に、咲き誇る花の香り。
ー雰囲気に飲まれちゃダメ!
陽子! 平常心よ!平常心!
頑張れ! 私!
もう一人の自分の声が耳元で聞こえた。
ーはっ!
アルヘルムの腕の中で、平常心を取り戻した陽子さんは、ひっひっふーと小さく呼吸を整えた。
それから、さりげなく雰囲気を壊さないように落ちたストールを拾ってもらって物理距離をとり、話題を選んで危険区域からの脱出を成功させた。
あとは、普通にフォルトゥナガルテンは楽しめた。
ーダメよね。体力をつけるのも大事だけど精神も鍛えなきゃ。お経は…臨兵闘者皆陣烈在前くらいしか知らないし…。やっぱり座禅とか組んだ方がいいかしら。でも、お寺の宿坊体験でやった事あるけど足が痺れて瞑想どころじゃなかったのよね。
ちなみに「臨兵闘者皆陣烈在前」は、密教の真言で邪気を払うために唱えられる呪文で、お経ではない。
恋心を邪気と言うなら、アルヘルムが払われてしまう。
陽子さんはベッドから這い出すと、机の引出しからカードを取り出してガラスペンで丁寧に「平常心」と書き、吸い取り紙をはめたブロッターでぐりぐりしてからカードを枕の下に滑らせた。
ーまくらさん、まくらさん。良い夢の代わりに平常心をつけてください。
枕をぽんぽんと叩いて、陽子さんはその夜の眠りについた。




