362 月の庭、秘密の花園
「さぁ、行こうか」
日の暮れかけた頃、アデライーデを迎えに来たアルヘルムが馬車へのエスコートの手を差し出した。
アデライーデはアルヘルムから贈られた真白のドレスに身を包んでいる。贈られたドレスは胸元で切り替えのあるストンとしたエンパイアラインのドレスである。
ドレスの生地はシフォンと薄手だが、ドレスの襟元はきっちりと締まり、下着……と、言うよりも綿入りの防寒着といった方が正確なアンダードレスはしっかり厚めで暖かいものがついていた。
冬が終わったとはいえ、春の夜はまだすこし肌寒い。
いつもならマリアから「お風邪を召したらいけないから」と、コートを着せられそうだったが、今日は白セーブルのストールと白狐のファーのついた手袋だけだった。
ー珍しいわね。過保護なマリアらしくないわ。
お支度の間中、にこにこと笑うマリアになにも聞けず、陽子さんはなすがままにお飾りをつけられてゆく。
胸元が詰まったドレスに首飾りはつけない。その分、銀と水晶で出来た髪飾りとイヤリングをつけられ、贈られた白いドレスを纏うと、春なのにまるで雪の妖精のような出で立ちとなった。
「あぁ、よく似合っている。とてもきれいだよ。まるで月の女神のようだ」
アルヘルムは、自分が贈った白いドレスを着たアデライーデを見て甘い言葉を囁くと、アデライーデの額に軽くキスをした。
「あ、ありがとうございます。アルヘルム様もいつも以上に素敵ですわ」
アルヘルムは、深い青の衣装に白いマントを羽織っている。いつもの訪問よりちょっとだけ、かっちりした装いである。
結婚してから一年ほど経つが、未だにこの手の挨拶には慣れない。でも、以前のように自分でもわかるくらいに頬が熱くならなくなったのは、少し慣れたのかもしれないと思いながら、アデライーデはアルヘルムにぎゅっと抱きしめられた。
今宵の出先は、ガラスの街。
アルヘルムと二人きりで視察という名のお出かけだ。
二人きりと言うが、マリアやエマ達も付き添いとして同行する。お忍びでもそうだが、高貴な身分だとなかなか二人だけでお出かけというのはできないようだ。
今日は正式なお出かけなので、二人が乗る馬車にはいつも以上に護衛の騎士たちがつく。その後にマリア達が乗ったアデライーデの荷物を積み込んだ着替え馬車と、ドレスを着ても使用できるトイレ付馬車が続く。
現代の日本のように「ちょっとトイレを借りに」と、利用できる24時間開いているコンビニなんか、この世界にはない。
「お花を摘みに行く」という言葉がこの世界にもあるようだが、現代人の陽子さんは絶対に無理である。もしもの時のために輿入れの時につけてくれた遠征用のトイレ付馬車を、お忍び以外のお出かけの時に使っている。
そして外出先で何があるかわからない。ワインをぶっかけられる事はないにしても、予期せぬ事があってドレスを汚してしまうことはある。マリア達が乗る着替え馬車には、その為にアデライーデの着替えが数着乗せられている。無論別にもう一台アルヘルム用の着替え馬車がついてきている。
なので、王と正妃のお出かけはぞろぞろとした大名行列のようになってしまう。
どのくらい走っただろうか、出かける時に傾いていた日はとっぷりと落ち、気がつくと大きな月が出ていた。
「さぁ、着いたよ」
馬車が止められた時には、護衛の騎士達の姿も消え灯りもない薄暗い場所に降ろされた。
目の前に見える小道には白い石が使われているのか、月明かりでその道が薄っすらとわかる。
「腕をどうぞ。足元が暗いから気をつけて」
「え、えぇ」
アルヘルムが差し出した腕を取り、アデライーデは慎重に歩く。
いつものドレスよりすこし丈が短いとはいえ、ここでコケでもしたら白いドレスが台無しだ。
少し歩いた先の、人の高さほどの生け垣の中にある木の扉を、アルヘルムが開けた。
そこは一面の白の世界だった。
その庭の奥にはライラックが満開の花を咲き誇らせクロッカスやプリムローズ、春咲の白薔薇や白水仙が所狭しと植えられていた。
「なんて、綺麗なの……」
月明かりと庭の所々に置かれた丸っこいランタンの柔らかな光を纏うように、白い花達が宵闇の庭に浮かびあがる。その花の中にきらきらと輝くクリスタルガラスで出来た鈴蘭のような花がたくさん揺れていた。
ーすごい…すごいわ。ライトアップされた夜景もきれいだけど、月明かりとランタンと白い花だけでこんなに明るく感じるなんて。まるで、ここだけ別世界のようだわ。
都会育ちの陽子さんは、元の世界で本当の月の光の明るさに出会った事はなかった。暗い夜道を歩いても必ず街灯や家の明かりがある。キャンプも子供連れだったから常夜灯のあるような所にしか泊まったことはない。
この世界に来て初めて、墨を流したような夜空と月の明るさと星の多さに驚いた事を、思い出した。
「この庭は『月の庭』といって、月夜に庭を楽しむ為に作られた庭なんだよ。満月の今日、どうしても貴女をここに連れてきたかった。明日はどうか晴れますようにと祈ったのは、子供の時以来だな」
「ありがとうございます。こんなに美しい庭は初めて見ます。とてもきれいですわ」
「フォルトゥナガルテンに君にふさわしい庭をと、思ってね」
「フォルトゥナガルテン?」
「あぁ、ガラスの街の名前だよ。フォルトゥナとは幸運や幸せという意味があるんだ。幸せの庭という意味で名付けたんだ」
「フォルトゥナガルテン…。素敵な名前ですね」
ガラスの街の名を噛みしめるように口にすると、アデライーデは傍にあった揺れる白薔薇にそっと手を添えた。
白いドレス姿のアデライーデは、月明かりに照らされ光る庭に溶け込んでいる。アルヘルムは目を細め、そのまるで一枚の絵のような光景を満足気に見つめた。
「貴女だけの月の庭を、気に入ってくれたかい」
「え? 私だけの? それはもったいないです。こんなに素敵な庭ならみんなに見てもらった方が…」
「……いや、だめだな」
「え?」
「他の誰にも見せたくないな」
アルヘルムはそう言うと、幸運の女神がするりと逃げないように抱き寄せ優しく唇を重ねた。
肩からすべり落ちた白セーブルのストールの代わりに、アルヘルムの白いマントがライラックの香りと共にアデライーデを包む。
他の誰にも見せたくない。
それが庭の事なのか何のことなのか、アデライーデはついぞ聞けなかった。




