355 婚約式と二人の父
「まぁ、お嬢様。嫁いでこられたときの奥様にそっくりで…」
そう言って、アメリーのばあやは言葉をつまらせ、目頭を押さえた。
懐かしい帝国の家の、衣装部屋に据えられた大きな姿見の中の自分をアメリーは、じっと見つめている。
鏡の中の自分は、落ち着いた辛子色のドレスを身にまとい、いつもより濃い目の紅をさしてこちらを見つめ返していた。
このドレスは亡くなった母親が嫁入りの時に着ていたドレスで、少し手直ししてもらったものだ。
真新しい手の込んだ繊細な白いレースが襟元と袖口を飾り、落ち着いたドレスに初々しさを添えていた。
「うんうん。とてもきれいだ」
父親のノイラート卿も懐かしむような、それでいて少し寂しげな表情でアメリーをみつめ、軽く抱きしめると優しく額にキスをした。
「だが、本当にこのドレスでよかったかい」
「お父様。私、このドレスが着たかったの」
「……」
父は無言で小さく微笑んでくれた。
小さい頃、王宮主催の茶会や結婚式のお呼ばれの時に母が好んで着ていたドレス。
決して華美ではないが、施された刺繍が気に入っている。
小さい頃「このドレスが着たい」とねだると、「いつかあなたがお嫁に行くときに譲ってあげるわ」と母は優しく微笑んでくれた。
少し前までは母とのこの約束を守れないと思いながら、袖は通せずにいたドレスだ。
「さあ、もう一度鏡の前に」
父に促され鏡の前に立つと、父は母の形見の赤い瑪瑙と金でできた髪飾りをつけてくれた。よく夜会前に父は母にこうやって髪飾りをつけていた。今日は父が私につけてくれているんだと思うと、父と母に守られているような気がする。
今日は帝国での婚約式の日。
この日のために、屋敷は丁寧に磨き上げられ温室で育てられた祝いの春の花で溢れている。
友人のソフィーは『瑠璃とクリスタル』のお菓子と、帝国のアリシア商会会頭代行であるトーマン・クルーゲに交渉して特別に数人の給仕達を派遣してもらっていた。
婚約式の会場である居間から、友人たちの楽しげな笑い声がかすかに聞こえる。
「こうしていると、本当にエレンにそっくりだ。髪飾りをつける時に少し首をすくめるところなんかね」
父はそう言って、鏡の中の私を見つめた。
「お父様……」
少しの間があって、父は名残惜しそうに私の手を取る。
「いつまでも……こうしていて……シリングス卿を待たせてはいかんな」
少しかすれた声でいう父に娘は何も言えなかった。
父娘ふたりだけで過ごす時間はあと僅かだ。
まして、娘は他国へ嫁ぐ。今この時よりほかにゆっくりとは過ごせないだろう。
結婚式の日の花嫁は忙しい。
そしてなにより、その日はこれからの娘の幸せのために前だけを向いていてほしい。
心を親に残すことなく。
ーなに、幸いにして自分はバルクに年の半分程度は滞在する。
ほかの父親よりは恵まれているんだからな。
あれほど娘の結婚を望んでいたのに、いざそうなると娘の手をひけなくなる寂しさに心が波打つ。
さざなみを鎮めるために、ほんの少しだけ時間がかかった。声がかすれたのは年のせいだ。
ばあやが涙ぐみながらコーエンの待つ部屋へと続く扉にちかづくと、ノイラート卿は娘の手を軽く握りアメリーをコーエンに引き渡すべく、できるだけゆっくりと一歩を踏み出した。
数日後、皇后のプライベートなティールームで引見が行われた。
通常、男爵家の婚姻にまつわる届け出は書類で済ませる。他国からの献上品はその国の身分のある貴族が使者でない限り、担当文官が献上品を受取り説明を受ける。
コーエンはまだバルクの名誉貴族で、皇帝や皇后に拝謁する資格はない。たまたま献上品の使者として皇宮を訪れていた。たまたまノイラート卿は娘と一緒に婚約婚姻の届けを出しにきていた。
献上品の報告に興味を持った皇后が、気が向いたので使者を午後の茶に招き、偶然居合わせた婚約者父娘もついでに招いたのだ。
『偶然』や『たまたま』は、重なる時はかさなるものである。
「ごめんなさいね。こうでもしないと他国の方と簡単には会えないのよ。規則にうるさいのがいるから。彼らは気にしないで、引見の条件なのよ」
皇后は、ころころと笑いながらお茶に口をつける。
皇后陛下と自分たちの席の後ろには、帯刀した護衛騎士が二人ずつ立っていた。
仕事で皇后陛下と何度も言葉をかわしている父は、「皇后様のお立場であれば、致し方ないかと」などと言って平気で話しているが、アメリーは公式の場で遠くからしかお姿を拝見したことがない。
ガチガチに緊張してお茶に手を伸ばせずにいた。
ちらりと隣を見ると、落ち着き払ったコーエンが微笑んでいた。
人生の驚きの限界値を超えてしまっているパンチドランカー・コーエンには、もうなにも驚くものはないらしい。
「待たせた」
「ちょうどよかったわ。いま始めたところなの」
手の震えが収まって、やっとティーカップに手を伸ばそうとした時に、皇帝陛下がティールームに入ってきた。
父から、皇后陛下とお会いするとは聞いていたが皇帝陛下もとは聞いていない!
ノイラート卿に続いてコーエンとアメリーが席から立ち上がろうとしたところを、皇帝は軽く手を上げて止めた。
「今は休息の時間なのだ。そのままで」
そういって、皇后の隣に座るとタイミングを計ったかのように静かに女官がお茶を差し出した。
その後、アメリーは皇后に問われるまま離宮でのアデライーデの事を話した。そろばんの教本制作の事、『瑠璃とクリスタル』の基礎構想を練ったお茶会やメニュー制作の会議の事を皇后は目を輝かせて聞いていた。
コーエンはそろばん依頼に関しての話を詳しく聞かれた。皇后様は楽しげにあれこれと聞きたがり、陛下は黙ってその会話を聞き、時折指を組み目をとじて何かをかんがえているそぶりをしていた。
「陛下、お時間でございます」
侍従の時告げで、皇帝陛下は中座するべく立ち上がると去り際にアメリーに言葉をかけた。
「娘と親しくしてくれて、感謝する」
「も、もったいないお言葉です」
去っていく陛下を、皇后様は不器用な息子を見るような目でちらりと見ると、すぐに続きの話をねだり始めた。
穏やかに、それでいて緊張感みなぎるお茶の時間はそうやって終わった。