345 インク壺とペン先
「どうでしょうか? ちゃんとやれてました?」
上目遣いで、小声で聞くフィリップはとても可愛く見える。
「もちろん、ちゃんとできてましたよ」
にこにことアデライーデは笑い、フィリップの頭をよしよしと撫でてあげた。
「! 私はもう子供ではないですから、頭を撫でられても…」
「あ、そうよね。ごめんなさい。ふふっ」
フィリップは、照れたような拗ねたような顔をしてアデライーデに抗議するが、中身が陽子さんなアデライーデは完全なおばあちゃん目線である。
−−ちょっと会わない間に、しっかりしてきたわねぇ。
『男子三日会わずんば刮目してみよ』っていうけど、この年ごろの子は男女問わず、成長著しいものね。懐かしいわ。
同じ年ごろだった裕人は、ちょうどこの頃ミニバスケットを始めて、少しだけしっかりしだした頃だった。
まぁ…もっとも、しっかりしたのはミニバスケットに関することだけだったが…。
部屋の片隅で声にならない黄色い声があがったが、レナードの声がけで皆は二階の居間へと移動した。
居間の長ソファの真ん中にアルヘルム、両脇にテレサとアデライーデ。フィリップは一人掛けのソファに座り、アルヘルム達の対面のソファに宰相夫妻が腰を下ろした。
「ヴィドロから送られてきたガラスペンを、これに」
アルヘルムの言葉で、王宮から付いてきた従僕が恭しくテーブルの中央にビロード張りの黒い小箱を置いて蓋を開けた。
中には三本のガラスペンが、キラキラと輝いていた。ペン先から胴まで全てガラスでできている。1本は透明なままで、残りの2本は深い青と赤であった。
「まぁ…、綺麗」
「本当に、ペン先までガラスでできているのですね」
メラニアとテレサが、感嘆の声を上げている間に従僕は、数枚の紙とインクを用意する。
「さぁ、試し書きをしてごらん」
アルヘルムに勧められて、アデライーデがガラスペンを手にとって、現代のインク壺よりかなり細めの縁にペン先が当たらないように、慎重にペン先を入れた。
−−そーっと、そーっと。気をつけてっと…。
陽子さんはガラスペンを持っていたことはないが、ちょっとお高い文房具屋さんのガラスケースの中に鎮座しているガラスペンの説明文は、何度も読んだことがある。
注意書きの『インク壺の縁でペン先が欠けることがあります。ご注意を!』にビビり、結局買えなかったのだが。
今なら100円ショップにもあるガラスペンだが、当時は安くて数千円。お高いと一万を超える代物には手が出なかった。
薫も裕人もまだ幼く、綺麗で壊れやすく割れたら怪我をするかも知れないガラスペンは、お財布にも子供達にも危険だった。
とぷんと、たっぷりインクをつけてサラサラと『アデライーデ』と、自分の名前を書いてみた。
ペン先の滑りも良いし、インクの伸びもいい。
さすがヴィドロの工房の職人達である。拙い自分の絵と話から、よくぞここまで作っものだと感心していると、フィリップが身を乗り出すようにアデライーデの手元を見ていた。
「アルヘルム様も、どうぞお試しになって」
「うむ」
アルヘルムは、アデライーデから手渡されたガラスペンで試し書きをすると、思っていた以上の筆運びの滑らかさに「これは、いいな」と言い、しげしげとガラスペンのペン先を眺めてからテレサに手渡した。
そして、ブルーノ、メラニアと試し書きをしてから、わくわく顔で見ていたフィリップにアデライーデが声をかけた。
「フィリップ様も、書いてみます?」
「良いのですか?」
「ええ、どうぞ。ペン先をインク壺の縁に当てないように気をつけてくださいね。羽根ペンと違って欠けてしまうと書けなくなるので」
「はい!」
ぱぁと、笑顔になったフィリップは、メラニアから従僕に渡されたガラスペンを手にとると、慎重にインクをつけ名前を書く。
「とても書きやすいです! あ、この前習った詩を書いてもいいですか? 少し長い詩なのですが覚えているんです」
「そうだな。どのくらいインクが保つか試すのにちょうどいいだろう。書いてみなさい」
フィリップの言葉にアルヘルムが許可をだすと、フィリップは、さっそく覚えたての詩を新しい紙に書き始めた。
大人達が、ガラスペンについてしばらくあれこれ話していると、フィリップが「できた」と声を出してガラスペンを、ついいつもの羽根ペンのように無造作にインク壺に突っ込んで「かちゃり」と縁に当ててしまった。
「ああ!」
縁に当たったペン先が少し欠けたようで、フィリップの顔色が途端に悪くなった。
「ごめんなさい…。壊してしまったみたいです…」
しょぼんとして謝るフィリップに、アデライーデは明るい声で「良いのですよ」と声をかけた。
「羽根ペン用のインク壺ですもの。私も縁に当たりそうでしたわ」
「……」
アデライーデのフォローの言葉にも、フィリップは顔を上げなかった。
今日はおねだりをして連れてきてもらった初めての日なのに、失敗をしてしまった。
せっかく覚えた詩を、一文字も間違えもせずにちゃんと書けたのに、最後の最後でガラスペンを壊してしまうなんて、次から「このような場には、お前にはまだ早かったな」と言われるかと思うと、フィリップは悔しくて恥ずかしくて顔を上げれなかった。
「フィリップ様は、良いことをしてくださいましたのよ」
「え?」
「今日は試作をみんなで見て、改良点を話し合うんです。今ので羽根ペン用のインク壺を工夫しないといけないとわかりましたもの。お手柄ですよ」
「壊したのに、お手柄なんですか」
アデライーデの言葉に、フィリップはぽかんと口をあけた。
「試作をみるって、そういうことですわよね? アルヘルム様」
「そうだな。不便だと思うところを何度も作り直させたり、もっと良くなるのではないかと話し合ったりするな」
アルヘルムが、うんうんとアデライーデの言葉に頷く。
「ガラスペン用のインク壺は、今までの物より広めの口にするのが良いかと思いますわ。ねぇ、あなた」
「そうだな。新しい商品が増えて、職人たちも喜ぶんじゃないか」
メラニアが笑ってブルーノに話題を振ると、ブルーノは、それに応えた。
「使用するときだけ、インク壺の縁に革やコルクのカバーをつけるのも良いかもですね。慣れないと大人でもぶつけるでしょうし」
テレサも、インク壺を見ながら思いついた事を口にする。
「壊れやすいペン先だけ、替えをつくるのも良いかもですね」
「あら。それでしたら、胴の部分はガラスでなくとも職人に自分好みの細工物を作らせても良いですわね」
「それ、良いですわね。いろんなペンが出来そうですね」
アデライーデのアイディアに、メラニアがのってきた。
「だったら、他の細工職人達にも仕事が増えるんじゃないか?」
「そうだな。他国にペン先だけ輸出するという手も出てくるな」
メラニアの言葉に新しい商機を見つけ、楽しげに話すアルヘルムとブルーノ。
−−あれ…? 僕がガラスペンを壊した話だった…よね?
すでに自分の事はそっちのけで、盛り上がる大人にフィリップは戸惑うばかりであった。




