340 屋敷と手紙
コーエンに土地を下賜する儀を終わらせ、アルヘルムは執務室でタクシスが戻ってくるのを書類仕事をこなしながら待っていた。
書類の山を一つ崩した頃に、上機嫌のタクシスが執務室の扉を開けた。下賜の儀が終わり、タクシスはコーエンに屋敷の建設に関わる費用を国から利子無しで貸し出す事を伝えていた。
今後の働きいかんでは、返済も免責される事もだ。
「シリングスは、なんと言っていたんだ」
アルヘルムが執務机からソファに移ると、タクシスは飾り棚からグラスとワインを取りだした。
「『期待に沿うように努力いたします』だ。まぁ、しばらくはそろばんの工房に注力してもらうが、秋以降には螺鈿細工の方にとりかかってもらわねばな」
「おい、予定を詰め過ぎるなよ。アデライーデが心配しているからな」
アルヘルムはグラスに口をつけ、ちらりと楽しそうなタクシスを少し心配げに見やる。
アルヘルムとタクシスは、アデライーデから送られてきた螺鈿細工をクリスタルガラスに次ぐバルクの新しい特産品となると、ひと目見た時から確信していた。
それだけ、螺鈿細工は美しかったのだ。
螺鈿細工を作れる者はコーエンしかいない。
だが、そのコーエンはこれから始まるそろばんの量産の基礎を作って貰わねばならぬのだ。
アデライーデの手紙にも、コーエンにはこれから一生に一度の結婚式があるのだから、くれぐれも無理はさせないようにして欲しいと何度も綴られていた。
「失敬な。ちゃんと結婚準備の期間やハネムーンはとらせるし、そろばんにつける小箱部分の職人の紹介はシリングスの師匠に使いをだした。伝があるそうだから、それを頼らせる。国内の生産はひとまずそれで始めさせ、シリングスの土地に工房ができればそこを国内の拠点とさせる予定だ。屋敷より工房建設が先になるが、それでいいそうだ」
タクシスは一口飲んだグラスをテーブルに置いて手帳を取りだした。手帳にはびっしりとこれからやらねばならない事や確認事項が書かれていた。
「シリングスには、うちの部下を何人かつける。他の工房との段取りの調整や資材の調達、納品などは、その者らに任せてもらい、シリングスには職人の育成に専念するよう頼んだ。シリングスの新工房は職人育成と最終的な検品が主な仕事になるな。国内が落ち着いたら帝国に工房の話をするつもりだ」
「帝国のどこにするんだ」
「ライエン伯のところはどうかと打診しようと思う。最初の場所は重要だ。できればバルクに近く、気心のしれた所がいい。競馬場の話も出ているからそれが上手くいけば話もしやすい」
「そうだな。ライエン伯であれば手堅いな。人夫も思ったより早く集めてくれたしな」
ライエン伯は皇后からの手紙を届けてくれた数日後にはガラスの街への街道工事の人夫の準備がととのったと知らせてきた。
農閑期とはいえ頼んだこちらが驚くほどの手配の早さに、思うより早く着工にこぎつけた。
「この分だと、夏には十分に間に合いそうだ。今温室の設計と資材を調達している。それが済み次第、ペルレ島の人夫をまわす」
「そうか。では、そちらはそのまま進めてくれ」
「あぁ。それと螺鈿の件だが、すぐに貝を探させようと思う。国内もそうだが、シリングスがメーアブルグにいた船員から聞いた話では、ズューデンにボタンや螺鈿に向くかもしれない大きな貝があるらしい」
「ふむ。ズューデン国のユシュカ商会に頼むか、こちらから人をやるか…だな」
タクシスの話にアルヘルムは、少し考えながら答えた。
クリスタルガラスをズューデンで商うユシュカ商会に貝のことを頼むのは簡単だが、まだ螺鈿細工を公にしたくない。できればバルクで直接現地調査をするのが望ましい。
だが、一番螺鈿に使える貝に詳しいのはシリングスだけなのである。
一人しかいない貴重な人材を国外に出すのは危険すぎる。
「交易が本格的に始まる前にズューデン国には使者を送り挨拶をせねばならぬからな。その時に調べさせるのがいいだろう」
「そうだな。随行員の一人に物見遊山を装わせるか。初めて訪れる異国で物珍しさに手当たりしだい見て回り買いあさっても不審には思うまい」
「そうだな」
タクシスは手帳にメモをとろうとテーブルのペンに手を伸ばしかけて、ふと手を止めた。
「そういえば、ヴィドロから使いが来ていたな」
「ヴィドロから?」
タクシスはソファから立ち上がると、自席の書類箱を探り一通の手紙を取りだしてアルヘルムに手渡した。
「アデライーデに頼まれていた試作ができたらしい」
アルヘルムが封を切ると、中には丁寧な文字で、試作ができた旨と届け先と届け日を尋ねる文章が綴られていた。




