332 寝椅子とウイングバックチェア
「あらあら、まぁまぁ」
楽しげに手に持った報告書を眺めながら、ローザリンデは寝椅子の横にあるサイドテーブルに手を伸ばした。
コルセットもないゆったりとした部屋着で、髪もブラシをいれただけの完全リラックスモードの今日は、週に一度の各方面からあがってくる定期報告書に目を通す日だ。
以前は皇后の執務室という名の書斎で、きちんとした装いで机に座り目を通していたのだが、四十路も過ぎたあたりからそれが辛くなってきた。
マナー教師からは「皇后たるもの、いつ誰が入って来ても、寸分の隙も見せてはなりませぬ」と教えられていたが、いつまでも若い頃の体力が続くわけもない。
それを教わった頃の倍の年齢はゆうに過ぎた。
陛下も書類仕事での疲れをとるために、執務の間に蒸したタオルを目にあて、こまめに小休止をとっている。が、化粧をしている自分はそれができない。
「陛下は良いですわね」と、拗ねてみせたら「楽にすればいい。書類が相手なんだから」と笑って言われた。
なので、数年前からこの日は仕事に集中するからと緊急時以外の執務室への入室は禁止し、執務室ではなく私室に報告書を持ってこさせ、化粧もせずに寝椅子で報告書を処理するようにしている。
何かあれば、執務室に待機させている女官が連絡してくる。それも終戦とともに、ほぼ呼び出しもなくなった、
サイドテーブルの上のグリューワインを手にとると、ジンジャーとシナモンの香りが鼻をくすぐる。たっぷり入れたバルクの蜂蜜の味は濃厚だ。
かちゃり
「あら、ベックとの話は終わったの?」
「あぁ、もう『人』との仕事は終わりだよ」
いつもより楽な服装で私室に入ってきたエルンストは、ローザリンデの寝椅子の隣のウイングバックチェアに深々と腰を下ろした。
すぐさま、銀のプレートに載った蒸しタオルを女官が差し出すとふわりとラベンダーの香りがする。
エルンストはオットマンに足を投げ出しつつ、蒸しタオルを目元に当てじんわりと目元の緊張が解れていくのを感じていると、ローザリンデの「ふふっ」という笑い声が聞こえた。
「何か面白いことでも?」
「えぇ、バルクからのお手紙よ。それぞれに面白いわ」
「……」
「まずは娘婿殿からの親書よ。前回の親書で知らせてきた通り、新年祭で春から街道を整備すると公表したそうよ。無事に国内の準備の目処がついたみたいね。同時に以前願い出ていた国境付近のガラスの街の建設にも着手したいから助力を願いたいそうよ」
「ほぅ、早速手助けが欲しいと?」
エルンストは目元のタオルも取らずに返事をする。
「ふふっ。厳しいわね。何かあったら手助けするって言っていたくせに。小国なので人手が足りないから、人夫が欲しいんですって。街道ではなくガラスの街建設の。街道の方は自国でなんとかするみたいね」
「………」
「で、人夫の宿舎はライエン領に作れないかと相談してきてるわ」
「なぜに?」
「人夫が落とす遊興費をライエン領に落としたいらしいわ。警備費の足しにして欲しいそうよ」
「………」
「あとは…。面白いわね。競馬場ってものをライエンのところに造るのはどうかとのお伺いがあるわ」
「競馬場? なんだい、それは」
エルンストがぬるくなったタオルを取って女官に手渡すと、別の女官がエルンスト好みのグリューワインを差し出した。ローザリンデのと違い、蜂蜜を入れずジンジャーだけをたっぷり絞ったぴりりと辛いグリューワインだ。
「軍馬を牡牝と年齢で分けて競わせる催し物らしいわ。あと指示通りに馬が動くかどうかの競技? ふふっ。アデライーデの発案みたいね。ライエンのところは馬の産地だから思いついたらしいわ。夫人がガラスの街に行く間に、夫君はライエンの競馬場で馬の競走を楽しむ。人夫の宿舎は庶民向けの宿屋として再利用ですって。考えたわね」
ローザリンデは、親書に入っていた競馬場の絵をエルンストに手渡した。
エルンストがグリューワインを口にしながら目を通すと、そこには、50メートル走を長くしたコースとそれを見る人達が階段状の野外劇場のような建物で見ている絵が描いてあり、右下には小さくアメリーとサインがあった。
「離宮と王宮に忍ばせた影からの報告もあるわよ。夫婦仲は相変わらず良いそうよ。テレサ妃や王子達との仲も最初の騒動以降は変わらず良好みたいね。貴族達からの評判も良いらしいわ。まぁ、離宮から出てこないし、王宮にいてもアルヘルム殿やテレサ妃や宰相夫人ががっちり守っているようだから、噂も立ちようがないと思うけど。今のバルク王宮ではノイラートの娘の求婚の話で盛り上がっているらしいわ」
「ふむ。そうか、変わらず穏やかに過ごせているのだな」
エルンストは、手渡された絵を優しい眼差しで眺めアデライーデの事以外興味がないといった返事をした。
「……ノイラートの娘はアメリーと言ったかな。アデライーデの手紙に度々出てきていた…」
エルンストは、絵のサインを見て思い出したかのように呟いた。
「ええ、そうよ。その絵もアメリー嬢の手のようね」そう言ってローザリンデは残りのグリューワインを飲み干すとサイドテーブルに静かにグラスを置いた。
「ノイラートを継ぐのはアメリー嬢の夫か孫をと申請が出ていたな」
「ええ。アメリー嬢の夫となるコーエンという職人は、アデライーデが作らせたそろばんでバルクからシリングスという名誉男爵位を賜わったわ。二国の貴族となる条件は揃っていますもの」
「シリングス…」
そう小さく呟いたエルンストは絵をサイドテーブルに置くと、女官に自分の書類の束を持ってくるように頼んだ。
「メーアブルクの影達は?」
他の書類に目を通しながらローザリンデに尋ねる。
「アデライーデが立ち寄りそうな所には、しっかり忍ばせているわ。教会も屋台も工場にもペルレ島にもね。おかしな動きはないと報告がきているわ。それに、バルクもアデライーデがお忍びの時は護衛以外にも警護の者を配置しているようよ。アデライーデは気がついてないみたいだけど」
「当たり前だ。アデライーデに気づかれるようでは警護とは言えないよ」
「ふふっ。確かにね」
ローザリンデも次の書類を渡すように女官に手招きをした。
「あとは周辺国ね。早速バルクに通じる街道を整備する計画が出てるようね。まぁ正規の街道はライエンのところを通らないとバルクには行けないから、問題はないわね…。あとはどうにでもなるし。それと各国、王子王女達との縁談の準備に入っているようね」
「ふむ、そちらは引き続き監視が必要だな」
「そうね」
皇帝と皇后は、その後時折短い居眠りを挟みながら報告書に目を通していった。




