324 コルンとエール
「おかえり。遅かったのね」
昼過ぎに出かけ、夕食の時間が終わる頃に立派な馬車で送られて帰ってきたコーエンを、父母が玄関先で出迎えた。
御者に扉を開けられ杖をついて馬車から降りたコーエンは、我が子ながらどこからどう見ても立派な青年貴族だった。
コーエンが礼を言うと、御者は深くお辞儀をしてもと来た道を戻っていった。
「疲れたかい?」
「あぁ、少しね。着替えてくるよ」
少しつかれた様子だが、母親に笑顔で答えるとコーエンは着替えに自室に向う。
しばらくしていつもの服に着替えて降りてきたコーエンに母親はいつものアイントプフを出した。
アイントプフは庶民が毎日のように食べる具だくさんのスープで、ジャガイモ、ニンジン、タマネギに刻んだ塩漬けの豚肉と茶色のレンズ豆がたくさん入った塩味のスープだ。
日本で言えば豚汁である。家にある適当な野菜とソーセージか塩漬けの豚肉が入れば、それだけでいい。
「これを食べたら、やっとホッとできたよ」
「そうかい? もっとお食べ」
やっと自分の息子の顔に戻ったコーエンに、母はライ麦パンを切ってやった。いつもはつけないバターも添えてやる。
嬉しそうにライ麦パンにバターを薄めに塗って、コーエンはライ麦パンの酸味とバターの塩味を楽しんでいた。
離宮で何があったと聞くことはしない。王家が関わる仕事なら親とはいえ聞くべきではないと両親は黙って食事をするコーエンを見ていた。
「ところで婚約式なんだがな。すべて相手方のご要望どおりにしようと思う」
コーエンの食事が終わるのを待って父親が口を開いた。パイプに火をつけゆっくりと煙を吐き出しながら穏やかな声で話し始めた。
「お前は、これから一代限りではなく2国の貴族となるんだ。貴族には貴族のしきたりがある。こっちは庶民でそれがわからん。幸いノイラート様はこの結婚を祝福してくださっている。バルクでの婚約式や結婚式は夫となるお前の顔を立て、我が家に任せると仰って下さったが、これからの事を考えるとそうした方が良いだろうと母さんと話した」
すでに1度、両親とアメリーの父であるノイラート卿は、この家で顔合わせをしている。緊張している両親にノイラート卿は気さくに話しかけ、自分の我が儘でご子息には負担をかけると両親に詫びてくれ、自分ができる限りの手助けは惜しまないと誓ってくれた。
アメリーも、「バルクの習慣は何もわからないのでよろしくお願いいたします。お義父様、お義母様」と庶民である両親を立ててくれている。
「それでいいの? 父さんと母さんは」
「もちろんだ」
「ええ、構わないわ。それにね、婚約式や結婚式は女の子の夢なのよ。一生に1回だけの。私もお父さんにはそうしてもらったわ」
食後のテーブルにお茶を置きながら、母親はコーエンに言った。
「婚約式もだけど結婚式までの間に、父さんと2人でいろいろ決めたり物を揃えたり、友達に式に出て欲しいと挨拶回りをしたりしたのは良い思い出よ」
「そうだな。挨拶回りに行く先々で捕まって、飲まされるのは覚悟しておけよ」
「それは…貴方だけでしょう?」
かっかっかっと、笑う父を母は軽く睨んでいた。挨拶回りの時に、酒豪の父になにかがあったのだろうというのは想像に難くないが、ここは聞かずに黙っておく。
「大丈夫だよ、僕は。だから安心して」
「お前も言うようになったな。1杯やるか」
陽気で酒好きの父は、家から持ってきた秘蔵の穀物酒とエールの瓶をウキウキと台所の棚から出してきた。
穀物酒は蒸留酒の1種で、いろんな麦や蕎麦から作られる無色透明で風味が無い強い酒だ。普通はこれだけで飲むのだが、酒豪の父はエールと交互に飲むのが好きなのだ。
「俺たちの息子の未来に!」
そう言って乾杯した父は上機嫌で杯をすすめ、饒舌に昔話をして、大半を1人で飲んでしまった。
起きてきたのは、朝一番に訪れたタクシスからの使いと一緒にコーエンが王宮に出かけたあとだった。
「あの…、息子は…。コーエンは、こんなに頻繁にお呼び出しをされるの?」
コーエンを送り出したあと、昨日の今日の呼び出しに心配になったコーエンの母親が、工房に来ている職人の1人に尋ねると、職人達はそろばん作りの手を止めて笑顔で答えた。
「師匠は正妃様の信頼が厚いですからね。離宮へは、わりとちょくちょく呼ばれてましたね」
「だな。マデルさんもよく呼ばれるって聞くしな」
他の職人も、いつもの事だと笑っていた。
「そうそう、去年の秋か冬の初めだったかな。急に呼び出されていったかと思ったら、籠いっぱいの貝殻を土産に持って帰ってきたよな」
「あー、あれな。師匠、その後しばらく個室で作業してたよな。確かその後も、よく離宮に行ってたな」
「あぁ。でもまぁ、仕方ないんですよ。なんて言っても、見たこともない珍しいものばかり作らされてるんですからね。その分試作は多くなるし、お伺いも多くなるんでさぁ」
「でも、王宮は初めてじゃないか?」
「だなぁ。師匠が名誉貴族になったからじゃないか? まっ、俺ら庶民にはわからないけどな」
「そう……」
「まぁ、そんなに心配しなくても、師匠は高貴な方達とのお付き合いは慣れてるから大丈夫ですよ。遅くとも夕方までには帰ってきますよ」
「うんうん」
職人達は、そんなに心配しなくても大丈夫だと、コーエンの母親を口々に慰めた。
「そう…、そうね。あの子が帰って来るまでに何か作って待っているわ」
そう言ってコーエンの母親は、工房をでて台所へと向かっていった。
アイントプフは、「鍋の中に投げ込んだ」の意味。
農夫のスープと呼ばれる庶民のスープです。
各家庭にそれぞれの味があり、懐かしいおふくろの味ですね。
コーエンの家はシンプルな塩味です。




