320 席次と改良
コーエンは居間に入室し、レナードに先導されながらソファから少し離れた位置で立ち止まった。緊張を隠しつつも恭しくお辞儀をし、挨拶をした。
「国王陛下正妃陛下、並びに宰相閣下にご挨拶申し上げます」
離宮からの使者が来た時、コーエンは少し早めの昼食を家族でとっていた。いつものアデライーデの呼び出しなら、離宮の顔見知りの従僕が歩きで来る。そして、用向きを伝えると少しおしゃべりをして帰ってゆき、コーエンはいつもより上等の服に着替え指定された時間に離宮に歩きで出向く。
それがいつもだった。
しかし、今日はいつもの従僕ではなく、少し年嵩の従僕が正装で馬車で迎えに来たのだ。そして、今日はアデライーデの呼び出しではなく、王からの御召しだと告げた。
「承知致しました。身支度を整えますのでお待ち頂けますでしょうか」
「指定された時間までは、十二分にございます。ごゆるりと」
使者にきちんと受け答えをするコーエンを両親は黙って見ていた。
「母さん。身支度をする間、使者の方にお茶を出してくれるかい。時分時だから、簡単な食事も出してもらえると助かるんだけど」
「え? ええ、わかったわ」
母親に茶の支度を頼むと、コーエンは浴室で湯を沸かして手早く身を清め、叙爵の時に着た服に手を伸ばした。
レナードから、男爵になった後の待遇の違いは教えられてはいた。そして名誉男爵とはいえ、貴族になったからにはアデライーデだけでなく、王からの御召しがあるだろうとも。
一介の職人は簡単には王に会えない。逆に王も簡単には呼び出せない。身分差があるからだ。だが、貴族となれば話は別で、簡単に王命で呼び出せるのである。それが名誉男爵という爵位が出来た由縁なのだ。
しばらくして身支度を整えたコーエンが、手にアデライーデから贈られた杖を持ち自室から出てきた。
「お待たせしました。参ります」
使者にそう告げると、コーエンは母親の頬にキスをして「行ってくるよ」と言って迎えの馬車に乗り込んだ。
コーエンの両親は、コーエンを誇らしく思いながらも少し遠くなったような息子を見送った。
「御用とお伺い致しました。私に出来ることであればなんなりと」
「急に呼び出して、すまなかったな。アデライーデがシリングスに相談したい事があるんだ」
アルヘルムは上機嫌でコーエンに声をかけた。アデライーデも笑顔でコーエンを迎える。
「相談したい事…で、ございますか」
「ええ。でも、話が長くなるだろうから、座ってちょうだい」
にこやかにアデライーデは言うが、コーエンはぴきんと固まった。上座の長ソファにアルヘルムとアデライーデが並んで座り、下座のソファにタクシスが座っている。
席次でいけばコーエンはタクシスの隣だ。だが、タクシスはこの国の宰相である。国王陛下を目の前にして、隣には宰相閣下…。
先日名誉男爵になったばかりの自分が、この場に座るのは非常に恐れ多い。
「いえ、私は…」
できれば遠慮させてもらって、立っている方がどれほど気が楽だろうか。
「レナード、シリングスにも茶を頼む」
「はい。ではシリングス卿、こちらに」
「は、はい」
こんな場面に慣れているのか、アルヘルムはさっさとレナードに茶を入れるように命じる。
お茶は立って飲むことはできない。それに王にそう言われて遠慮する事は、不敬にあたる。コーエンは覚悟を決めて「失礼します」とタクシスに挨拶をして隣に座った。
なんとか顔を作ったが、出されたお茶は全く味がしない。コーエンがティーカップを置くと、アデライーデが話を切り出した。
「相談したい事なのだけど、そろばんの大量生産についてなの。以前見学をした時は、1人でイチからそろばんを作っていたわよね?」
「はい。今もそのように作っています」
「それを分業でそろばんを作る事は、出来るかしら」
「分業で、ですか」
「ええ。もしかしたら職人さんには分業する事は本意でないかもしれないと思って聞いてみたかったの」
「いえ、貴族向けの小物などは1人でイチから作りますが、庶民向けのものや大物は分業で作る事も多いです」
「そう!良かったわ。秋からそろばんの需要が伸びるでしょう?今の人数で注文をこなすのは難しいかと思ったんだけど、どうかしら」
「確かに、かなり難しいです。新しく職人を増やそうと思っているのですが、育てながらとなるとすぐには…」
-やっぱりね。人はすぐには育たないわよね。
「だからね。そろばんを改良しようと思って」
「改良ですか?」
「取りあえず、今の職人さんで3倍の生産量にしようと思うの」
「3倍?!」
コーエンだけでなく、アルヘルムもタクシスも声を上げて驚いた。
「あの…どのようにしてでしょうか」
アデライーデの提案に、コーエンは恐る恐る聞き返した。
「口でいうより書いた方がわかりやすいわね。レナード、紙とペンを持ってきてくれる?」
「こちらにご用意してございます」
レナードは、アデライーデの前のティーカップを下げ、脇のティーワゴンからさっと紙とペンを取り出した。




