319 コルクと小旗
「えっと…、次は船に常備させる救命胴衣ですわね」
「救命胴衣…。それはどの様なもので?」
救命胴衣という、初めて聞く言葉にタクシスは想像がつかず、メモをとっていたペンを止めてアデライーデに尋ねた。
「一言で言うと、溺れない為のコルクの服ですわね」
「コルク?あのワインや炭酸水の栓の?」
「ええ。そのコルクですわ。コルクって水に浮きますでしょう?コルクを板状にして帆布などの丈夫な布に縫い込んで上着を作るのです。助けられるまでの間、溺れにくくなると思います」
「ふむ…。しかし、海を渡る商人は多少なりとも泳ぎの訓練はすると聞いておりますが」
「でも、これからズューデン大陸との貿易に力を入れられるんでしょう? こちらからズューデン大陸に渡られる方の中には商人だけでなく、高貴な方もいらっしゃると思うんです。その方達の中には泳ぎが得意でない方もいるでしょうし、ドレスを着た女性の方もいると思います。何も無いのが1番ですが、万が一のときの為に救命胴衣があれば少なくとも溺れないかなと思ったんです」
「なるほど…」
貴族の名目は王と国を守る軍人なので、男性貴族は基本的な教育の一環で、帯刀し軍服を着ての泳ぎを経験させられる。ただ海を跨いでの戦争の経験はこの大陸の国にはない。
河を挟んでの戦いはあるが、後方にいる高位貴族になればなるほど、溺れない程度の泳ぎの習得くらいである。
まして貴婦人は、その機会すらない。あったとしてもドレスでは泳ぐ事ができない。湖での小型のボート遊びで転覆し、水を吸った重いドレスで身動きが取れず、助けようとした護衛ごと溺れると言う痛ましい事故もある。
--確かに貴婦人方には必要かもしれないな。
貴婦人が海を渡ると言う事は考えにくいが、帝国の皇族や貴族が使者としてズューデンに渡る事は考えられる。備えておくに越したことはない。
アデライーデの話を黙って聞いていたタクシスに、アルヘルムが水を向けた。
「試しに、沿岸警備船で採用してみるのも良いんじゃないか?」
「沿岸警備船で…か。うむ…そうだな」
一応メーアブルグにも警備船を持つ沿岸警備隊がいる。小型船で3隻だけだが…。海岸線の見回りが主な仕事であるが、過去に海からの外敵の侵入はない。
ごく稀に嵐で航行不能になった商船の救助や、座礁し放棄された船の解体など、どちらかと言えば警備船より救助船に近い。
まずは、その船に常備させるのがいいだろうとアルヘルムは考えていた。
ペルレ島は順調に開発が進み利益も出て、最近はほぼ毎日何隻かの船が寄港しているのだが、以前は聞かれなかった怪しげな船を見たという報告があがってきている。
「そのうち本格的な沿岸警備の部隊を創らねばですね」と、テレサから進言されているのもあるが、遠くない将来に本格的な部隊が必要になるのは間違いない。
--良い事の影には、心配事が常につきまとうな。見返りも大きい分、考えられる備えも大きい。
アルヘルムは、飲み終えたティーカップをテーブルに置いて、ふと隣を見るとアデライーデがなにか思案している顔をしていた。
「どうした?」
「そういえば、3隻でしたか? 警備船は」
「あぁ、そうだよ」
「ちょっと気になったのてすが、船同士って、どうやってお話をするんですか?」
「お話? あぁ、敵が来たとか緊急な知らせは決められた色の旗を掲げる。望遠鏡で確認できるからね」
「あの…もっと詳しい話を伝える時はどうされるのですか?」
「近くまで船を寄せて、伝令が小舟で行き来するんだよ」
「大変ですわね。あの…手旗で文字を表すってできないでしょうか?」
「手旗で?」
「ええ。両手に小旗を持って、予め決められた文字を1つずつパタパタと、体で表現するんです。望遠鏡で見えるくらいに近づけば小舟で行き来しなくても良いかなと思うんです」
--確か開港記念日のイベントで、海上自衛隊の人がやってたわ。詳しくはわからないけど、短文なら正確に話を伝えられるって言ってたわ。
アルヘルムも初めて聞く話だ。
タクシスも黙ってアデライーデの次の言葉を待った。
「小舟で行き来するとか危ないじゃないですか? 夜とか暗い時は無理だと思うんですが、明るい時ならかなり遠くからでも、何が言いたいかわかると思うんです」
「………」
アルヘルムとタクシスは、黙って顔を見合わせた。
確かにそれで正確に伝えられるのであれば、海上の伝達は飛躍的に速くなる。
「アデライーデ様、詳しくその話を…」
タクシスがペンにインクをつけ、ずいと身を乗り出した。
「お話中に失礼いたします。お呼びになったシリングスが参りました」
レナードがコーエンが来た事を告げると、アルヘルムがここへと許可する。すぐに、緊張した面持ちのコーエンが居間に通された。
「仰せにより、罷り越しました。コーエン・シリングスにございます」




