313 封蝋と追伸
「昨日は、案内人の仕事でずいぶん帰りが遅かったらしいな」
執務室に入ってきたアルヘルムに、まるで奥さんのような口調で、タクシスが声をかける。
「あぁ、ついつい話し込んでしまってな。楽しかったぞ。今朝の閣議がなければ泊まってこれたんだがなぁ。いつも思うが、よく色々な事を…」
「……閣議に遅れなかったのだけは、褒めてやるよ」
そう言って、ずいと書類の束を手渡した。
きっと、この話の流れはアデライーデ様がまた何か新しい事を言いだしたに違いない。
興味があるが、話が長くなることは間違いないので、先に報告するべき事を伝えねばならぬ。
「これは?」
「月末の祐筆職員の試験に関する書類だよ」
「ふむ」
アルヘルムはソファに座って、受け取った書類の束をぱらぱらとめくり目を通す。
試験場所は、王宮の端にある食材課の2階。
試験内容は、文字の丁寧さは言うに及ばず、実際に使われる書類を1時間に何枚書けるかである。枚数は極端に少なくない限り合否には関係ない。実際に仕事を割り振る時の目安にするためだ。
審査官は各部署の課長達である。公正を期す為に受験者の名前は書かず、当日くじで渡される番号が受験番号となり書類の右上に記入してもらう。名前と番号は受験台帳にタクシスの部下が記録管理すると書かれてあった。
「未来の祐筆課でやるのか?」
「あぁ、いずれ祐筆課が使う場所だが、今はまだ使われておらず遊んでいる場所だ。今回は半数が各派閥の寡婦の婦人方だし、庶民からの受験者も貴族の縁者の娘たちだ。問題はないだろう」
「今後は?」
「貴族学院に協力を求めている。大量の机と椅子があるのはあそこくらいだし、受験日を休みの日に調整すれば学業の邪魔にはならんだろう。ただ…」
「ただ?」
「計算課は、祐筆課のようにすぐには人は揃わんだろうな。まず、そろばんを作れるものが少ない上に、今は王宮や貴族達からの注文が殺到しているらしいからな」
「フィリップも知っていたが、貴族学院も今秋からそろばんを導入するから、子供の為に注文しているのだろう」
「そのそろばんを作ったシリングスだが、帝国からも正式にノイラート男爵の後継として認めると、昨日使者が来た」
「早いな」
アルヘルムは書類を机に置くと、呼び鈴で侍従を呼びお茶を持ってくるように頼んだ。
「公表はノイラート卿の令嬢との結婚後だが、使者はその知らせとは別に手紙を携えていてな」
タクシスはそう言うと、自分の机の鍵付きの引き出しから1通の封書を取り出した。封蝋には皇后ローザリンデの私的な手紙に押される薔薇と『R』の文字が付いた印璽が押されていた。印璽とローザリンデの署名を確認すると、アルヘルムは封をとき手紙を読み始めた。
侍従がお茶を持ってきて下がるまでの間、アルヘルムは手紙から目を離すことはなかったが、静かに扉が閉まると、黙って手紙をタクシスに差し出した。
「なんと?」
「読んでみろよ」
今回帝国とバルクを繋ぐ男爵が誕生するとの事、おめでたいし素敵なことだわ。帝国での結婚披露宴は、結婚報告の時にされるのかしら?
それほど格式高い場所ではなくとも、二国を繋ぐ男爵にふさわしい場所がいいわね。ノイラートが帝国の招待客に悩むのなら、いつでも聞いてと伝えてね。
そうそう、ノイラートはずっと令嬢の心配をしていたのよ。なるべく早く安心させてあげてほしいわ。
追伸
そろばんって便利なものらしいわね。
そんな事が至極丁寧にかつ、上品に手紙には認められていた。
「どうしてだろう。手紙を読んでいると帝国にいるはずの皇后陛下が、隣に座って話しかけてきているように感じるんだが。それとなんだか嫌な予感がするんだが…」
「否定は……しない」
タクシスもきっとアルヘルムと同じ思いなのだろう。2人は黙ってお茶に口をつけ、しばらく口を開かなかった。
「まずは、シリングスの件から整理しようか」
沈黙を破ってタクシスが口を開いた。「あぁ、そうだな。簡単な方から片付けよう」とアルヘルムが気を取り直して返した。
「シリングスの結婚披露宴は『瑠璃とクリスタル』でやれと、いう事なんだろうな」
「だろうな。しかも、できるだけ早くだ。貴族の婚約期間は早くて1年だが、お互い男爵同士だし令嬢の意向次第では数ヶ月でもできなくはない」
貴族の婚約期間は、余程幼くない限り花嫁側の輿入れ道具…主にウェディングドレスの準備期間にあてられる。
高位になればなるほど、ドレスを生地から織らせたり好みの刺繍をさせる。宝飾もルースから選んだりするので年単位の時間がかかるのだ。
高位貴族の場合は家の威信もあるので最低でも1年はかかるが、男爵同士の場合、省略される事柄が多くその分婚約期間を短くもできる。
「ふむ、ノイラート卿に確認してくれ」
「わかった。後は寄り親か」
二国を跨ぐ貴族の結婚は、夫側の国で結婚式を執り行う。披露宴はお互いの国でそれぞれに行うのが慣例だ。招待客はそれぞれの親が今後の付き合いを吟味して選定する。
しかし、それは普通の爵位持ちの場合である。
シリングスの場合は名誉男爵で親は平民だ。その場合シリングスを名誉男爵となるまで庇護した貴族が寄り親となる。つまりアデライーデとなるのだ。
新年会の時、あまり上の爵位の者をつけると妬まれかねないと、とある子爵を寄り親代わりにシリングス達に付けたが、子爵は大勢の貴族に取り囲まれ彼までたどり着けなかった。
あれは采配不足であった。今度はもっと爵位が上の者をつけないと同じ轍を踏む。まして帝国での披露宴となれば、男爵となったばかりのシリングスを守るために社交に慣れた者がなるべきである。
「とりあえず、シリングス達は俺の派閥に入れておく。今後の事もあるからな」
「そうしてくれ。国内だけならともかく、帝国での披露宴でなにがあるかわからないからな」
「うむ。最後にこの『追伸』だが…」
タクシスは、テーブルに置かれたローザリンデからの手紙をちらりと見つつ眉間にシワを寄せた。
「去年の夏。同じようなことがあったな…」
「あぁ、あれも確か皇后陛下からの手紙…だったな」
「つまり、忙しくなるって事だよな?」
「のんびりは…できないだろうな」
執務室に深いため息が2つ、静かに響いた。




