302 名前と手紙
「はぁ…」
「? 午餐の席でなにかありました?」
アルヘルム達との午餐を終えて、王宮の自室に戻った途端に発せられたアデライーデの小さなため息をマリアは耳聡く聞きつけた。
「え? いいえ、なんでもないの。正装したドレスを着ての食事に慣れてなくて…」
「アデライーデ様。こちらは正装ではなく午餐用のドレスですわ」
マリアとミア達は手早く食事用のドレスから、自室用のゆったりとしたドレスにアデライーデを着替えさせる。
アルヘルムから贈られた真新しいバルク風のドレスだ。現代のローブ・モンタント風で立て襟と胸元、それに袖口に細かな花の刺繍を散らすのがバルク風である。淡い菫色のAラインのくつろぎ着であるが陽子さんにとってはこれもお出かけ着だ。マリアに言わせるとコルセットもパニエもつけていないので立派な室内着らしい。
「そうだったわね」
「やはり、お慣れになる為に離宮でもお食事用のドレスをお召しになって、お食事された方がよろしいのでは?」
「……考えとくわ」
ヤブヘビだった。
離宮ではなし崩し的に、簡素なドレス(裕福な庶民服)での食事をしている。離宮でまで王宮と同じようなドレスを着せられるのは、たまったものではない。
「そう言えば、テレサ様が仰っていたけどコーエンの求婚が話題になっているの?」
急いで話題を変えるべく頼んだ紅茶に口をつけてからアデライーデはマリア達に尋ねた。
「それはもう!!」
弾けるような笑顔でマリア達は答えると、せきを切ったように話し始めた。
「あの日以降、王宮でこの話題が出なかった日はありませんわ」
「そうですわ。私達も歩けなくなるくらい元同僚に呼び止められて、話を聞かれましたもの」
「爵位を賜ったばかりの若き男爵が、今まで想いを秘めていた異国の令嬢へ愛のみを捧げての求婚! あぁ、これだけでご令嬢方の心を鷲掴みですわ。それだけでも夢のようなのに、お二人とも美男美女でいらっしゃいますからね」
ミア達は口々に、コーエンの求婚がいかにセンセーショナルな出来事だったかを熱く濃く、アデライーデに話して聞かせた。
「求婚されたいご令嬢方の間では、アメリー様に憧れて髪を赤く染めたいと仰られる方もいるそうなんですよ。それが無理ならあの日アメリー様がお召しになっていた臙脂色のドレスで求婚されたいと話題になっています」
「そんなに話題に? 確かにメラニア様が、帝国とバルクの瑠璃とクリスタルでコーエンの求婚を寸劇にしたいと仰っていたわね」
「まぁ?!本当ですか? それは素晴らしいですわ!絶対、話題になりますわ」
エマの言葉どおり、新年会ののち臙脂色のドレスや赤毛のウイッグが、若い令嬢の間で大流行となった。また、時を置かずに帝国の瑠璃とクリスタルで催されたこの求婚の寸劇は瞬く間に話題となる。
帝国の女性貴族の関心はもとより、男性貴族も重大な関心を持ってこの話題を口にした。コーエンがつくるそろばんと、2つの国の爵位を持つ新しい貴族の誕生にだ。
「あと、不思議な噂もありましたわ」
「不思議な噂?」
エマが、2杯目の紅茶を注ぎながら王宮で先輩のメイドから聞いた噂を口にした。
「えぇ、コーエン様がどこかの貴族のお血筋ではないかという噂ですわ」
「それ、私も聞かれました」「私もです」
ミアとエミリアもこくこくと頷いた。
「え?そうなの?」
「いいえ、違うそうですわ。コーエン様のお母様は貴族と関わりが全くなかったそうで、コーエン様は正真正銘ご両親のお子だそうです」
驚いたアデライーデがマリアに尋ねると、すぐにマリアは否定する。
エミリア達は元同僚メイド達からあまりにも聞かれるので、マリアを通してコーエンに手紙で問い合わせると、すぐに否定する手紙が返ってきていた。
「どこからそんな噂が出たのかしら」
首を傾げるアデライーデに、マリアは至極当然と言うように噂の解説をした。
「それは、あれだけ叙爵の所作が完璧であれば、間違われるのも無理はないですわ。それにあの佇まいです。あの後すぐにお二人は広間を後にしましたから、誰も確かめるすべが無くて、噂だけが残ったみたいです」
コーエン達はアメリーの父親と話した後、公衆の面前で求婚した気恥ずかしさもあってか、アデライーデの許可を得て王宮を辞していた。
コーエンの両親も師匠も堅苦しい所は苦手で、粗相をする前にと歓談が始まって早々に王宮を後にしていた。
「翌日からコーエン様のご実家へのお問い合わせが、大変だったみたいですわ。使者がひっきりなしに来て、もしやあの時の?って…。」
「それは、大変だわ。今はどうなっているの?」
--コーエンが急に有名人になって、家族がパパラッチに追いかけられる感じよね? しかも相手は貴族で平民のご両親は断れないわよね。
「ご両親は対応に困り果てて、妹のレーア様の婚約者の家の商家に対応を任せて、今はコーエン様の元に身を寄せられているそうです」
「そう、村なら安心だわ。コーエンは?呼び出されたりしてないの?」
心配そうに尋ねるアデライーデに、マリアはにっこり笑った。
「コーエン様も村にいる限り安全ですわ。コーエン様への取次窓口は、アリシア商会になりますので、商会で対応されるそうです」
「そう、なら良かったわ」
ホッと胸をなでおろしたアデライーデに、エミリアがちょっと微妙な顔をして口を開いた。
「コーエン様のお母様は私と同じエミリアとおっしゃるらしいのですが、バルクでもとても多い名前なんです。なので、主人とそういう関係になったメイドの中には同じ名前の人もいたのかもですね」
ミア達は顔を見合わせて、うんうんと頷いている。それだけよく聞く話なのであろう。
--主人とメイドって、現代なら上司と部下よね。どの世界でもこの手の話は多いのねぇ。でも、今日ほど商会を作っておいて良かったと思ったことはないわね。今度また何か差し入れしなくちゃ。
後日、コーエンの両親に問い合わせをしてきた貴族宛に、アリシア商会より、タクシスの名を添えた丁寧な説明の手紙が届くこととなる。
それを境に、この噂はピタリと止んだ。




