297 始まりとこれから
「ようやく、進んだな」
「あぁ。思っていたより短かったよ。年を越さずに良かった」
アルヘルムの言葉に応えて、タクシスは執務室のソファにどかりと腰を下ろした。
「文官達には負担をかけたがな…」
「うむ。だが問題が起こってすぐに王の強権で採択しても、ねじ伏せられては不満は残り燻り続けただろう」
「あぁ。どちらにしろ時間は必要だった。あの者たちが納得する時間と、こちらの準備の為にもな。何事かを変えたり生み出したりするには時間と犠牲と反対を伴うとは、よく言ったものだ」
「そうだな」
「登用の準備は整ったのか」
「庶民に公布するのは、新年祭あとだ。実際に登用試験をするのはその一月後だろう。それまでは伝で臨時の文官を増員する。これ以上文官の負担が増えて、辞職されては敵わんからな」
タクシスはそう言うと、サイドテーブルに置いてあった白ワインのボトルを手に取り、切子細工を施したクリスタルガラスのグラスにとくとくと注ぎ始めた。
このグラスは、ヴィドロから試作として送られてきた。バルクを象徴する蒼の色を被せたものと、透明なものの2種類だ。タクシスは注ぎ終わるとアルヘルムの前に蒼のグラスを置いた。
「メラニアにも手間をかけさせたな」
「テレサ様が、王宮の外に出るわけにはいくまい。メラニアも理解してくれてる」
「そうだな。テレサには茶会で各派閥の夫人方へ話をしてもらおう」
「夫人方の理解の方が、案外早いかもな」
「そう期待したいな」
タクシスは、透明なグラスの中で揺れる白ワインを口に含んだ。
庶民の、特に女性を中心に登用するには理由がある。
今は民間でも人手不足だ。職人をはじめ、単純作業である荷運び人足でも人手が足りない。まして、少しでも読み書き計算ができる者は引く手あまたである。
文官登用となれば現職を辞めてでも文官を目指す者がいるかもしれぬ。そうなれば、せっかく活気を帯びてきた民間が混乱する。
来年以降、さらに公民ともに人手が要るようになる。貴族の子息が足らなくなるのと同じように、民間の男性も足らなくなるだろう。
しかし、王都での女性の職種はまだ少ない。
針子やレース編みの職人など手に職を持つ者もいるが、多くの若い女性は売り子や女給として働いていた。
年頃の娘は客を呼びやすいから簡単に仕事が見つかる。そして、その店の客や仕事で知り合った男性の中から結婚相手を見つけ、結婚し辞めていく。結婚して数年経てば、子供のために時間の都合の付きやすい短時間の下働きの仕事へと移っていく。
その中で、読み書き計算ができれば裕福な商家に嫁入りしやすくなるからと、熱心に娘を教育する母親もいた。結婚により平民となった下位貴族の子女達である。
その子女の娘達は一通りの教育を終えると、売り子ではなく家業の手伝いを始める事が多い。実家で実践教育をしつつ嫁入り先を探す。中には実家や貴族に嫁いだ姉妹の伝を頼り、行儀見習いとして数カ月から数年ほど下位貴族のメイドになる者もいる。
短期の行儀見習いとは言え、それはより良い結婚へと繋がる肩書となった。
タクシスは、そこに目をつけた。
彼女達は平民だが、半分とはいえ貴族の血筋を持ち親から貴族並みの教育を施されているのだ。
庶民文官の登用の始まりに、彼女らであれば貴族からの反発は少ないだろう。また、実務的にも現在、彼女達以外に文官に登用されるだろう庶民は僅かと考えていた。
タクシスは当初、王都にあるいくつかのリトルスクールの字のきれいな者たちに書かせてみよと、部下に例文を渡した。
例文を清書したものは、例文どおりに書けていた。
書けてはいるが、公式な書類を書かせるには字の癖が強かった。貴族学院の先生であれば『書き取りの修練が足りない』と言われるレベルだ。少し矯正すればなんとかなるかと思われる紙は、1.2枚であった。
民間の書類であれば問題はないだろう。しかし、反発が強いであろう始まりの庶民文官が書く横やりを入れられない文字としては、どれも条件を満たしていなかった。
あの夜、遅くまで歓談をした時にアデライーデが「理想だが、庶民の子供たち全てが読み書きができるようになれば、選べる職の幅も広がる」と言っていた。
確かに理想だ。
王都に限れば男女ともに識字率も高い。雇われる時に契約書を交わすことも多いので、親は最低限の読み書き計算を習得させる。
しかし、文章を読む事はできても、書く事は訓練がいるのだ。訓練には金も時間もかかる。
地方では子どもも労働力である。リトルスクールに通えない子も多い。通っても農閑期の時期だけだ。そして親は文字より生活に必要な簡単な計算の習得をさせたがる。
ゆえに、簡単な文章と自分の名前がかけるのが精一杯という者がほとんどだ。大抵はその村の村長の家の子だけが契約書を書ける程度である。
そのような現状である。今より国費を使い教育を施しても文官として使える者は、地方からすぐには集まらないだろう。いたとしても僅かだ。国全体に教育を行き渡らせるのは、10年単位の時間と少なくない国費を使う事になる。
それほどに、教育とは高価なものなのだ。
--アデライーデ様の理想が叶うのは、50年。いや100年先かもな。
そう思いつつ揺れる白ワインを眺め、まずは王都に一校だなとタクシスは考えていた。




