296 揺れる蜂蜜酒と心
「もう限界でございます。国益が増えるのは誠に喜ばしい事ではございますが、来年現状以上業務が増えたりすれば、ただでさえ人員が足らず疲弊しきっている文官達が持ちません」
「………それは承知している」
「収穫祭以降、体調を崩し病休届けを出す者が続出しています。まだ数は少ないですが、代替わり以降派閥を離れると通告してきた家もございます。説得を重ねてはおりますが…。この話がすぐに広がる事はございませんが、代替わりで離脱が公になれば…」
「わかっておる!もう良い、下がれ」
「……、では、御前を失礼いたします」
とある伯爵は、応接室をでていく寄り子まとめ役の子爵を渋い顔で見送った。来年国策で何某かが始まると自分が属する派閥の長である侯爵より耳打ちされている。
--国策であれば、それが覆ることはないだろう…。頭の痛いことだ。
明日、この件に関して各派閥の主だった伯爵を集めた緊急の会議がある。盛夏より頭を痛めている議題を話し合うためだ。どの派閥も同じ現状であるのはわかっている。改善策は出ず、現状で対処するしかないとなるだろう。
現状の報告に来た子爵に「今後、仮に今以上の発展となれば…」と水を向けたところ、その言葉で察した子爵に噛みつかれたのだ。
バルクの派閥の大半の起源は川にある。
北に連なる山脈から流れ出る大小の川があり、その川沿いにある近隣の村が協力して治水を進めた。治水に関わった有力者が自然と貴族となり派閥へと変わっていった。派閥を作った方が国への働きかけが強くなる。派閥に属する家の数は、その派閥の力を表すからだ。
今回離反を告げた家はその川沿いになく、勢力を広げるために囲った商会を営む家である。離反して多少の影響はあるだろうが、この好景気にその影響もすぐに取り戻すだろう。
ぬるくなった茶に口をつけたが、飲下す気になれない。
伯爵はベルでメイドを呼び、蜂蜜酒を用意させた。強い酒が飲みたかった。
炭酸水からペルレ島の開発で自身が持つ商会も領地も恩恵を受けている。そして、新たにクリスタルガラスが発表された。アデライーデ様が降嫁されて以降、バルクには多大なる恩恵が降り注ぐ。
しかし、その恩恵の大きさに比例して文官達の仕事が逼迫し、さまざまな届け出の認可が滞り始めているのは商会からも報告を受けている。男爵家からの陳情がなくとも、人が足りぬのはわかっている。わかってはいるのだが…。
「……ふぅ」
メイドに用意させた蜂蜜酒に口をつけることなく、伯爵は手にしたグラスの中で揺れる蜂蜜酒を見つめていた。
伯爵の予見通り、その会議の結果は出なかった。
もう初冬と言ってもいい晩秋の御前会議の終盤、タクシスへ同じ派閥の貴族から『以前ご提案頂いた庶民文官を登用した場合、どのような扱いになるか』という伺いの言葉が発せられた。
「そうだったな。登用の話だけでおわってしまい、どのように扱うかまでは話せなかったな」
タクシスは軽く笑顔をみせ、より深くゆったりと椅子に座り直し周りの者を見渡した。今まで強固に反対していた派閥の者たちも固唾をのんでタクシスの挙動を見つめる。
タクシスは脇に用意していた書類を手に取ると、ゆっくりと読み上げた。
・登用予定の文官は実務のみを担当し、その長を新たに現文官の中から選ぶ事。
・文官は主に女性を登用する事。
・当面は登用した文官をまとめ教育しつつ、各部署共通の書類を作成させるが、いずれ各部署に派遣しその部署で長を定める事。
・文官の登用にあたり登用試験を王都で定期的に行う事。
以上の事を告げた。
そして、今後貴族女性にも文官の門戸を開く考えがある事も付け加えた。王宮内部だけに留めておきたい書類も多い。秘匿性の高い書類は貴族女性の文官に任せたいからである。
「如何かな?」
「……」
「おや、反対なのかね」
彼らに反対できるはずもない。
ここしばらく見せつけられていた食材課の仕事を見ればわかる。
それに、タクシスの提案は書類作成の負担が大幅に減り、役職が増える事を意味する。
「いえ、妙案かと思いますが、庶民の…女性に務まりますでしょうか」
「試験的に入れた食材課の臨時文官は、問題なくやっているが?」
「……」
「女性貴族には、王宮メイドや家庭教師、侍女などの道もありますが、果たして希望する者がいるかどうか」
「確かにな。だが皆が皆、社交性に富んでいるわけでもない。一人で文字を書くのが好きな者もいるだろう。貴族女性の文官は追々になるが、門戸は開いておくに越したことはない」
「……」
誰も反対はしないが、表立って賛成の声もあがらない。
それまで黙って聞いていたアルヘルムが口を開いた。
「急速な我が国の発展に、文官の数が追いついていないのは、皆も十分にわかっていると思う。文官達にはここ数ヶ月苦労を強いている。私は、この提案を採択しようと思う」
「しかし、陛下」
「人はすぐには育たぬ。来年の貴族学院の卒業生も数が決まっているのだ。そして、現状来年まで文官達が持つまい。国内でまだ手つかずの人材があるのであれば、それを活用する」
「陛下の仰せのままに…」
アルヘルムの言葉により、庶民文官の登用が正式に決まった。




