294 ペン先と家路
「なんだよ…なんでなんだよ…、あと少しで終わったのに…。もう…もう嫌だぁーー」
長い文章の最後の単語のスペルを書き損じて、ペン先を潰しながら狂ったようにガリガリと書類に斜線を書きなぐって叫びだした若い文官の側に、同僚が集まってきた。
「落ち着け、落ち着けったら。もう少ししたらきっと良くなる。それまでの辛抱だ。皆で頑張ろう。な?」
ペンを取り上げ優しく宥めようとするが、ボサボサの前髪の間から疲れ切った目をして、若い文官が噛み付く。
「もう少しっていつだよ?いつ良くなるんだ!頑張ったら良くなるのか?頑張っても頑張っても、日に日に業務が増えてくばかりじゃないか!」
「……」
涙声で叫ぶ文官に誰も応える者はいない。
「去年だって忙しかったさ。でも、こんなんじゃなかった!繁忙期に残業はあっても寮に帰れて、休みもとれてた!それが今は机に齧りついて我武者羅に仕事をしても残業続きじゃないか! しかも、もう何日も泊まり込みだ! こんなの…奴隷の方がまだマシだ」
「おい…」
「食材課の奴ら、今までどおりに定時上がりなのに…。豊穣祭だって今までどおり休めて楽しんで…。なのに、どうして…どうして!うちの課は…。いつまで続くんだよぉー」
積まれていた書類の山に突っ伏して、若い文官は泣き始めた。
皆思うところは同じだ。自分もそう思うと、喉元まで出かかっている。
それでも、自分達はこの文官の同じ派閥の先輩だ。なんとか宥めようと言葉を探した。
「仕方ないじゃないか、庶民文官は使わないって派閥の上が決めてるんだから」
「そ…それに俺達が仕事をしないと民が困るだろ。せっかく好景気になって豊かな生活ができるようになったんだ。貴族として俺らが民の生活を守らなきゃ…」
震える若い文官の背中を撫でながら、今まで何度となく言ってきた言葉を繰り返すと、若い文官は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、背中の手を跳ね除けた。
「俺は全然豊かじゃない!貴族どころか人としての生活も守られてもない!仕事!仕事!仕事!仕事が増えてどんなに頼んでも課員は補充されない! いいじゃないですか!庶民文官でもなんでも入れれば! 貴族ならこなして当然の仕事量なんですか? こなせない自分が悪いんですか?! 自分が無能なんですか?!」
「………そうじゃない。そうじゃないよ」
払いのけられたが、もう一度興奮している後輩の背中を撫でてやる。
「課長だって、残業してるよ。みな一緒だ。お前は悪くない」
「課長は!それでも毎日家に帰れてるじゃないですか?俺らを置いて!食品課長は、時々だけど課員が帰ったあと一人でも仕事してますよ?! それでも俺らよりずっと早く家に帰ってる! 俺、悪くないんですよね? じゃ…、誰が悪いんですか?! 庶民文官を認めない派閥ですか? それとも、こんなに仕事を増やした…」
「やめろ!それ以上言うな!不敬だぞ! 課長や他の派閥の誰かに聞かれでもしてみろ、お前だけじゃなく家にも累が及ぶぞ!」
喚く後輩の口を抑え、先輩文官は小声で囁いた。
「なぁ、知ってるか。ペルレ島の人夫達はアデライーデ様に8時間以上の労働は禁止されてるって」
「な?!」
この騒ぎを黙って聞いていた一人の文官がボソリと呟くと、皆が驚愕した顔を一斉にその文官に向けた。
「疲れによる事故防止と労働の質を担保する為に、人夫達にはしっかり休みをとらせなければならないと、アデライーデ様が国王様にご提案されたらしいんだ。工事に事故はつきものだろ? 国王様も半信半疑で宰相様に指示したらしいんだが事故も揉め事も減って、工期も早まって…。今後の公共工事はそのやり方ですすめるようにするって、もっぱらの噂らしい…」
そこまで言うとその文官は、意を決して次の話を始めた。
「オイルサーディンの工房がすぐにそれを取り入れて、最近はメーアブルグの商家もそれに習って、少しずつだが勤務開始時間をずらして、使用人の勤務時間を8時間にするようにし始めたって、さっき差し入れを持ってきてくれた業者に聞いたんだ」
「ほんとかよ…」
「だから、宰相様が庶民文官を入れる事を提案されたのは、アデライーデ様の発案だったんじゃないか…と、、」
皆がその文官の言葉を呆然と聞いていると、ゲラゲラとした笑い声が課内に響き渡った。
「お…俺達は、本当に庶民の使用人以下の扱いなんだ…。俺は貴族を辞める…。辞めてやる!年末には長兄に代替わりするんだ、名ばかりの男爵家子息なんて肩書を捨てて、俺は平民になる!みなし貴族なんてくそ喰らえだ! アハハ…あはは…、はぁ……」
泣いていた文官は、ひとしきり大きな声で笑ったあと、気を失うようにスゥと倒れた。
「ソファに寝させて休ませてやれ。そして、誰かこいつの家に迎えを寄越すように知らせてくれないか」
そう後輩に指示すると、その先輩は山積みの書類が待つ自席に戻っていった。
若い文官の迎えはすぐに来た。
次期当主の長兄と青ざめた顔をした母親だ。挨拶のあと、母親はすぐに息子が寝かされているソファに駆け寄り、涙を流しながらやつれた息子の手を取り額にキスをしていた。
「許しておくれ。お前が家に帰ってきて仕事が辛いって打ち明けてくれた時に、弱音を吐かずに頑張れなんて、私が言わなければ…」と小声でつぶやき、頬を優しくなでていた。
長兄は課員達をきつく見据えた目で見ながらも丁重に礼を言い、末の弟をできるだけそっと連れ出すよう連れてきた従僕達に命じ、今にも倒れそうな母親を抱えるようにして帰っていった。
「……戻ってくるかな」
「無理じゃないか…。すぐに家族が病休届けを出すだろう。そのまま退職するんじゃないか」
「だよな。俺らの派閥から何人目だ?」
「わからん、数えないようにしてる」
そう言って、ぱたんと職場の扉を閉めた。




