289 タルタルソースとレモン
とある城下の酒場で若者が2人、蜂蜜酒を木のコップに注いで乾杯とぶつけていた。
「なぁ…。最近ゾクゾクする事ないか?」
「あぁ。昼食時にな」
一口蜂蜜酒を口にして、つまみに頼んだ腸詰めを齧りながらもう一人の若者に口を開いた。
「だよな。めちゃくちゃ視線が痛いよな」
「いい加減、お偉いさんも認めればいいんだよ。人が絶対的に足りないんだからさ。庶民でも能力があるものを登用すれば、食材課みたいに楽になるのに」
「下位貴族の息子だって、数に限りがあるのにまだ探してるらしいぜ」
「王宮勤めの家の奴らは夏にあらかた採用されてるだろ? 去年までならともかく、この好景気で領地持ちの家は自分とこの家業でも人が足りなくなってるんだ。今の奴隷勤務の王宮務めの噂を聞いて、余程子沢山の家じゃない限り出さないんじゃないか?」
「だな。うちがタクシス様の派閥で、ほんとに良かったぜ」
「全くだ。仕事のやり方も、以前のホケミ課よりずっと効率的だし、理不尽もないしな。俺、仕事が面白いってここに来て思えるようになったよ」
「あぁ、意地の悪い先輩の『この文章の改行が気に入らない。書き直し』とかの難癖もないし、仕事は任せてもらえるしな」
「あいつら、自分より仕事量こなすとやるもんな。『書き直し』」
「ああ、時間も紙も無駄だってんだよ。それに食材課の職場環境も段違いだよな」
「手狭になってたからな。ホケミ課を吸収する時に、北の端の倉庫を改装して移るって聞いた時は、物置から倉庫かよって思ったがタクシス様のあの差配だったしな」
「ホケミ課の時にこっそり見に行って改装前の外観を見た時は、うへぇって思ったけどな」
調味料課であった時も、新設の課であった事と少ない人数だったこともあり、それまで物置として使われていた部屋をあてがわれていたが、文官棟の中にあった。
課員がグスタフも含め4人であった時はそれでも良かったが、タクシスが自分の派閥だからと臨時の庶民祐筆文官と計算文官を宰相権限で雇い、他部署からの配置換え員が一人増えた時には、もう部屋はぎゅうぎゅうになっていた。
ホケミ課を吸収するとタクシスから通達があった時に、食材課文官達は困惑した。
文官棟も部屋数に限りがある。大きな部屋はすでに埋まっているのだ。今でもぎりぎりなのに、これ以上課員が増えたら廊下に机を出すしかない状態である。
そこでタクシスは、会議で食材課がホケミ課を吸収し、文官棟から食材課を北の倉庫に移動させると議題に出した。食材、ホケミ課が使っていた部屋が空くことと人員を整理するので、6名ほどの文官を他部署に回すという条件付きだ。
喉から手が出るほど分室と文官が欲しかった者達は、この条件に飛びついた。
『庶民が王宮で仕事ができるのだ。倉庫でもありがたいだろう』『同じ文官棟で庶民文官など見たくもない』『まぁ、王宮の品位を落とさない程度の改装は認めてやろう』
そのような思惑を含んだ貴族言葉が飛び交ったが、すんなり会議では了承された。
即日、タクシスは王宮の営繕課の子爵に倉庫の改装を、指示した。
「予算がなくてな。机や椅子は文官棟で使われなくなった物があっただろう? 『同じもの』でなくてよいのだ。内装と家具の選定は卿に任せる。どのようになるか楽しみにしているぞ」
「承知いたしました」
「それとな、隅に給湯室ではなく庶民が使う厨房を併設するようにして欲しいそうだ」
「庶民の厨房…。台所でしょうか」
「あぁ、一般的なものをな」
「それはどのように使われるのでしょうか」
「食材課は、一般庶民向けの食材や調味料を扱う。貴族向けの物は王宮の料理長に協力してもらっているのだが、庶民向けのものの検証に使うらしい」
「なるほど。理解いたしました」
「また、食材課長の希望なのだが、課長室は要らぬそうだ。その分課員達が小休憩がとれる場所を作ってほしいそうだよ」
「…。課長室が要らぬとおっしゃるなら、ホフマン卿はどこでお仕事をされるのでしょうか」
「課員と机を並べるそうだ。必要がある時は応接室の一角を使うらしい」
「……。さようでございますか」
営繕課長の子爵は困惑していた。
王宮勤めの貴族にとって、自分専用のスペースを持つことはステイタスだ。役職がなくても広い机がそれを表し、役職が付けば自分専用の部屋が与えられる。
それも広い部屋ほど自分の地位の高さを表すと言われていて、その部屋に部下や出入りの業者を呼びつけられるようになりたいと思うのが、大抵の新人文官の目標であった。
子爵は困惑はしていたが、タクシスの言外の意図は読み取っていた。
内装は任せてもらえる。使う家具の選定もだ。
--やっと、日の目を見る事ができるな。これでまた、現役復帰だ。
営繕課の子爵が「可能な限り、予算を使わぬよう努めます」と、言葉を返すとタクシスは満足げに頷いた。
「今でも移動初日に、あの倉庫だった食材課に入った時の驚きは忘れられないよ」
ホケミ課から移動してきた文官は、魚のフライにたっぷりとタルタルソースをかけながらくすりと笑った。
「外観が、まぁ見られるようになったな…くらいだったから余計にだ」
もう一人の文官が、驚くほどレモンを魚のフライに絞りながら目を細めた。
「かけ過ぎだろ」
「お前だって」
お互いに軽口を言いながら、フライを口に投げ込んだ。




