287 不夜城と夜明け
「どの国も軍事上、詳しい自国内の地図や街道の場所は公にはしませんでした。国を渡る商人はおおよその国の場所を記載した地図の所持は許されておりましたが、主要な建物の場所も種類も地図に記載する事は庶民には許されておりませんでした」
レナードは少し遠い目をして、立体模型を見つめていた。
--確か前世でも、戦国時代には詳しい地図を作るのはご法度だったって本で読んだ気がするわ。先の大戦中は明日の天気予報も空爆の恐れがあるからできなかったって、おじいちゃんから聞いた気がする…。
「そうだったのね」
陽子さんが前世の記憶を引っ張り出して、レナードに応えると、レナードはニコリと笑った。
「テレサ様より、平和な世の始まりとして新しい街の検査場に同じものを設置するとのお言付けがございました」
「そう…。そうね。新しい時代に、平和な時代の幕開けの記念品になるわね」
「はい。新しい街が正式に動き始める頃、同じものが皇帝陛下にも献上されるとの事です」
「きっと、喜んでいただけると思うわ」
「さようでございますな」
長かった戦時を思い出したのか、その日のレナードはいつもより言葉少なであった。
久々に離宮で過ごす夜。
パチパチと弾ける薪の音を聞きながら、いつものワインを片手にちびりちびりと飲みながら、陽子さんは王宮での日々を思い出していた。
--そうね。前世で普通に私達一般人が享受してきたサービスや情報って、この世界では貴重なものだっていうことを、あの晩改めて実感したわ。
テレサやメラニアと新しい街の話で盛り上がった時、一晩で大火や破落戸達によって村がなくなったり、不作や戦火を逃れてきた流民が増え城下が混乱したという話をちらりと聞いた。
--頭ではわかっていたけど、電話一本で、警察が来てくれたり消防車や救急車が駆けつけてくれるのが当たり前だったし、今の私は皇女で正妃と言う特別に守られた立場だから、実感はそうなかったのよね。お出かけするメーアブルグは、バルクの中でも比較的治安の良い場所だったし…。
交番の制度は割とすんなり受け入れられた。他になにか前世の制度で役に立つものはと考え、小学校教育とか良いとも思ったけど、今のこの国では負担が大きいと陽子さんは感じていた。
日本だって明治時代に尋常小学校が始まって先の大戦前に一応大学まであったが、尋常小学校しか出てない人はザラにいた。
ちなみに都会育ちの陽子さんの母親は高校卒。男尊女卑の激しかった田舎育ちの夫の雅人さんのお母さんは、尋常小学校卒である。
生まれた年は10年ほどしか違わないのにだ。将来を考えたどんなに良い政策でも必ず反発はあるし、人に馴染むのにはそれなりの年数がかかる。大勢の人の考えや習慣を変えるのは大きな出来事や時間しかない。
--今は、読み書きそろばんができれば十分よね。
--文官が足らないって事で、春には祐筆課と計算課が正式に創設されるのは、いい時期だったからよね。庶民から採用されるから、庶民に教育が広まるのにも、王宮の文官達の負担削減にも少しは役立ちそうだわ。
最初は仕事を庶民に奪われるという危機感や、貴族しかやってこなかった王宮での仕事を庶民にさせるという事に激しい抵抗があった。しかし、炭酸水の輸出以降加速度的に増す仕事量が数カ月続き、不夜城と言われた文官棟が晩秋に落ちたのだ。
毎年豊穣祭前後には、特例としてどの文官にも交代で1週間の休暇が与えられるのだが、それが仕事が滞るという理由で1日になった。このままでは新年祭の同様の休みも、仕事次第で削られるというまことしやかな噂が疲弊しきった文官達の間に駆け巡った。
それまで豊穣祭休暇を心の拠り所とし、休日返上・長時間残業や連日の泊まり込みとブラック企業どころか奴隷労働に近い仕事量をこなしていた文官達の心がぽっきりと折れた。
豊穣祭を境に体調を崩す者が続出し、強固な反対派も祐筆課や計算課を受け入れざるを得なくなったのだ。
不夜城と言われた文官棟の中で、唯一所員がほぼ定時に帰り休日もしっかり取ってた課が1つだけある。
グスタフ・ホフマン率いる調味料課改め、オイルサーディン等も扱う食材課だ。
オイルサーディン等も扱うようになった為、すでに部下は7名に増員されてはいたが、庶民にも手が出しやすい手頃な価格の保存食として国内外で需要が高まり、他の課と同じように仕事はパンク寸前だった。
庶民と仕事をするのになんの偏見も抵抗もないグスタフは、タクシスより打診された臨時の祐筆・計算文官計4名を喜んで受け入れた。




