282 蓋と清潔と雨
「ふふっ、私達ばかりでなく、アデライーデ様は新しい街をどのようにされたいのでしょうか?」
メラニアの問いかけに「そうですわねぇ」とアデライーデは呟いた。
--街のセキュリティに関してはテレサ様が詳しいし、建物や彫刻に関してはメラニア様よね。うーん、私が何か言えることは…。
陽子さんは自分でも役に立てるのではと思える事を、言ってみることにした。
「いくつかございますが、まずは排水蓋でしょうか」
「排水蓋?」
「はい、離宮に私のお料理の研究室があるのですが…」
と、陽子さんは離宮のキッチンのシンクにボロ布を丸めて作った栓の話をした。帝国もだとは思うがバルクに下水施設はない。厨房の使用水はシンクから管を通して屋外の汚水瓶に溜められる。
その管を通って汚水のニオイやネズミや小虫が入ってくるのを防ぐために布の栓をするのだが、たまに閉め忘れると確実にネズミや虫-黒いアイツ-が侵入するらしい。
現代でもそうだが、ネズミや虫は病気を運んでくる。現代より医療体制が整っていないこの世界なら少しでも予防に力を入れた方が良いだろうと、現代の排水トラップを今度マデルに作ってもらおうと思っていたところであった。
「やはり口に入る物をつくる厨房はできるだけ清潔が1番かと思いましたの」
「排水蓋…」
「そ…そうですわね。清潔は大事ですわ」
正直、テレサとメラニアにアデライーデが言っている蓋というものがなんなのかよくわからなかった。洗顔や歯磨きはメイドが持ってくる温水と盥で済ませるし、2人ともお風呂は猫脚のバスタブを使用しているが排水栓など無いのである。もちろん、2人とも厨房を使った事も見たこともない。
なので、熱心に話すアデライーデに何も言えなかったのだ。
「あと、街中にはわかりやすいところに公衆のお手洗いとゴミ箱を設置したいですわ。折角のきれいな街並みに悪臭やゴミは似合いませんもの」
メーアブルグでも少し気になっていたが、アデライーデがメーアブルグに行く時は、食堂や教会でお手洗いを借りていた。屋台で飲食をしている人達はトイレをどこでしているのだろうと不思議に思っていたのだ。
メーアブルグ出身の騎士レイナード・ライエンにこっそり聞いたら「ち…近くのそういう場所だったり…、店に借りたり…します。自分は事前に済ませるので借りた事はありませんが…」と、なんとも歯切れの悪い返事が返ってきて、ピンときた。
昔のパリの街やベルサイユ宮殿でも、トイレはなく暗い路地や植え込みで済ませていたと本で読んたことがある。
--まぁ…、『お花を摘みに行く』が、女性のトイレに行ってきますの符牒だものね。
しかし、唐突に正妃に自身のトイレ事情を聞かれたレイナード・ライエンの心中を思うと同情を禁じ得ない。
「でも、きれいな街並みにそれらは合わないのでは?」
メラニアが少し疑問を投げかけた。自分の邸宅でも来客用のお手洗いは、一見わかりにくく隅の方にあるからだ。
「それは街並みに合わせた建物にすれば違和感はないと思います。わかるところになければ、どこですればいいかわからないですし…。きれいな制服の清掃員を常駐させれば、清潔も治安も保てますわ」
「それであれば…良いかもしれませんわね」
庶民のトイレ事情はわからないが、そう言われればそうかもしれないとメラニアは頷いた。
陽子さんが以前ドイツを旅した時に日本と同じく公衆トイレがあったが、そのトイレには女子トイレには女性の清掃員が、男性トイレには男性清掃員が常駐していた。清掃するのはもちろんだが、防犯の意味もあると現地の友人が教えてくれたのだ。ちなみに掃除のおばちゃんが男性トイレも掃除するのは日本くらいなものらしい。
「毎日夜に汚物の回収をさせれば、夜警代わりにもなると思うのです」
「一石二鳥ですわね。不自然なく警らできますわね」
あら…という顔でテレサが微笑む。
「手洗い・うがいの習慣も義務化させれば、疫病の防止に少しは役に立つと思います。国外でどんな病が流行っているかわかりませんものね。無論ペルレ島と同じくお風呂には入っていただきたいと思います」
「あとは…、そうですわね。アーケード街ができれば雨の日でもお買い物ができるかと思います」
「アーケード街?」
「ええ、道の上にテントのようなものを作るのです。そしたら雨が降っても濡れずにお買い物ができますわ。大通りは無理ですけど脇道の商店街ならできるかなと思います」
「雨の日にお買い物…」
貴族がお忍び以外に街に出ることはない。買い物も邸宅に商人を呼び寄せ買い物をする。でも、庶民は日々の買い物の為に店に行かなければならない。
傘はとても高級品なうえ、ほぼ貴婦人用の日傘として使われる。庶民は夏の暑い日でも雨よけにマントを羽織って買い物にゆくのだ。新しい街にも人は住むので、アーケードがあればきっと役に立つはずだと陽子さんは思ったのである。
「雨の日には、庶民は家の中にいる事が多いと聞きましたわ」
これもメーアブルグの教会で、雨の日が続くと屋台の売上がほとんど無いと聞いていたからである。




