272 噂と噂
初めて会う男爵に、本家筋の伯爵令嬢を紹介したいと言われコーエンはかなり戸惑っていた。
レナードから新年祭で紹介されるであろう上位貴族への挨拶は前もって教えられていた。そして、その際に家族として夫人や令嬢を紹介されるであろうとは言われていたが、このように令嬢だけで紹介されるとは思っていなかったからだ。
戸惑うコーエンをよそに、ラドリン男爵はにこにこと話を進めはじめた。
「うぉほん、それではご紹介いたします。こちらはこの度そろばんの開発と普及にて叙爵されたコーエン・シリングス男爵。そして、こちらのご令嬢はヴィート伯爵のご息女である、アンネリーゼ嬢です」
ラドリン男爵がにこやかに紹介した令嬢は年の頃はまだ10代後半であろうか、妹のレーアとさほど変わりない年の頃だった。少しウェーブのある明るい艶のある栗色の髪をハーフアップにして黄色いウインタージャスミンの花を模した髪飾りをつけていた可愛らしい顔立ちの令嬢だった。
「コーエン・シリングスと申します。本日男爵位を賜りました若輩ものですが、ご令嬢のようなお美しい方にご挨拶させていただける栄誉に浴し大変光栄でございます」
コーエンはそう挨拶し、微笑みかけるとその令嬢は表情は変えずに少し頬を赤らめ「ヴィート伯爵家が4女、アンネリーゼです」とカーテシィでコーエンの挨拶に応えた。
「ほっほっほ、やはりシリングス卿もアンネリーゼ様のお美しさに目を奪われましたか」
レナードから、貴族の夫人や令嬢に会った際はマナーとして必ず最初に美しいと褒めろと教わっていたのでコーエンはその通りに挨拶をしただけであるのだが、アンネリーゼの頬はより赤くなっていった。
「アンネリーゼ様はお美しいだけでなく芸術や工芸にも造詣が深くいらっしゃるのですよ」
そんなコーエンにお構いなくラドリン男爵は喋り続けた。
「よろしければ、伯爵がお借りしている控室にてお茶でも飲みながら、シリングス卿のそろばんのお話などお聞かせ願えませんでしょう?」
「…」
いくら鈍感なコーエンでも、これはさすがにまずい流れになってきたと心の中で慌て始めた。角を立てずにどうやって断ろうかと思っていたときである。
「おや、ラドリン男爵ではありませんか?」
ラドリン男爵が少し離れた扉を指差した時に、ラドリン男爵の後ろから別の男爵の声がした。
見ると数人の貴族とご令嬢方がいつの間にかそこに立っていた。
「これは、ウラッハ男爵にグレト男爵。それにビロン男爵まで…」
「こちらに新進気鋭のシリングス男爵とルックナー小男爵がいらっしゃるとお聞きしましてな。是非にご挨拶をと思いまして」
「それは…それは」
「おお、アンネリーゼ様もこちらに?では、もうシリングス卿へのご紹介はお済みで? 私達もシリングス卿にご挨拶と私共の家族の紹介をしたいと思いまして…。ところでルックナー小男爵はどちらに?」
抜け駆けは許さないとばかりに、男爵たちの熱い戦いが始まっていた。元来挨拶は下位の者から上位の者にするものである。しかも、仲介者を介して行われる。本来であれば、アリシア商会の会頭代行である子爵がそれをするべきなのだが、その子爵は新年会開始と同時に上位貴族に次々と声をかけられコーエンのもとに辿り着けずにいたのだ。
--まずい…まずいわ…。
同僚のメイドに、コーエン達が男爵達に取り囲まれていると聞いて慌てて様子を見に来たエマとミアは、カーテンの影からコーエンたちの様子を伺っていた。
「取り囲まれちゃってるじゃない? あんなことにならない為に、後見役の子爵様がついてるはずなのに!どこにいるのよー。それになに?本家筋の伯爵令嬢の紹介って?他の男爵方は自分の家族とかの紹介ってわかるけど…」
エマが親指の爪を噛みながらブツブツ言っていると、ミアがエマの手を押さえて小声で囁いた。
「もう、爪が傷むじゃない?やめなさいよ、その癖」
「だぁってぇ」
口を尖らせているエマにため息をつきつつ、ミアはコーエン達をチラと見る。
「名門の伯爵家が1代男爵に縁組の申し込みは外聞が悪いから、より子の男爵の紹介って事にしたいのよ。それでコーエン様から是非にと申込みがあったって事にすればお家の面子はたつからね。それにコーエン様のお母様が、どこかの貴族の屋敷に勤めてなかったかって、メイドに探らせてるって言っていたから、コーエン様を貴族の庶子って思っているフシがあるわ」
「えぇ!なにそれ、コーエン様が貴族かもしれないってほんとなの?」
「わかんないわよ。ただ、雰囲気は貴族っぽく見えるから疑われているみたいよ」
「確かに、マニー様に比べて落ち着きが違うものね」
クシュ…。
--風邪かな。熱いお茶を頼んだほうがいいかな。
マニーにとっては、とんだとばっちりである。
「それより、早くアデライーデ様にお知らせしないと!広間の外に連れ出されでもしたら、噂をたてられちゃうわ」
「そうね。早くおしらせしないと!」
こくりと頷きあって、エマとミアは足早にアデライーデの控えの間に向かった。




