270 巡りと若さ
「兄さん!」
叙爵が終わったコーエンに妹のレーアが駆け寄っていく。
「兄さん、叙爵おめでとうございます」
「ありがとう、レーア」
この日の為に新調した紺のドレスは若いレーアには少し地味めだが、襟元と袖口にあしらわれた白のレースがレーアの可愛らしさを引き立てていた。
「コーエン、おめでとう。いや、シリングス男爵様、おめでとうございます…か?」
兄であるオーティスがふざけながら兵士の礼をとって祝いの言葉をコーエンに投げかける。
「兄さん、やめてくれよ。むず痒いじゃないか」
「もー、男爵様になってもコーエン兄さんは兄さんなのよ」
兄弟3人で笑い合っているとコーエンの両親もやってきて、コーエンに祝いの言葉をかけた。
この後の新年祭のパーティに呼ばれるまで新男爵とその家族は、この間でしばらく歓談をしお互い親睦を深めあうのだ。緊張していたコーエンも叙爵が済んで肩の荷がおりたらしく、緊張のとけた顔で喜び合っていた。
「ね、アメリー様からお返事は来たの?」
両親が他の家族から話しかけられている時に、レーアが小声でコーエンに囁いた。
「ああ。叙爵を喜んでくれてたよ」
「良かったわ。新年祭が終わったら、すぐにでも帝国へいくの?」
「仕事の目処がついたら、すぐにでもと思っている」
「そうね。すぐがいいわ!きっと、首を長くしてお待ちなってるわよ。でも、残念だわ。今日の兄さんの晴れ姿を見てもらいたかったわ」
「そうだな」
レーアは少し残念そうにそう言うと、両親の所に戻っていった。入れ違うように親方夫妻がコーエンの元を訪れ、涙ぐみながら叙爵を祝ってくれた。
「母さん、仕事の目処がついたら兄さん帝国に行くって」
「そう…。大丈夫かしら」
「大丈夫よ。兄さんも同じ男爵になったんだもん。母さんも心配性なんだから!」
レーアは、ずっと独り身で浮いた話がなかったコーエンを心配していた母親にだけ、こっそりと兄さんには恋人がいると話していた。母親は、その話を聞いてほっとしたようだったが、相手が帝国の男爵令嬢と聞いてコーエンの口から父さんに言うまでは誰にも言わないようにと、レーアに口止めをしていた。
「でも、叙爵したとはいえ職人の名誉男爵と、帝国の宮廷画家の男爵家とは釣り合いが取れないと反対されているんじゃないのかい?」
「それは…、わからないけど」
「なにより、コーエンと結婚するという事は男手で育てた娘を遠いバルクに嫁に出すって事でしょ…。お父様のお気持ちを考えたら、帝国から出さないと反対されるかも…。だから、そのお嬢様は急いで呼び戻されたんじゃないのかい?」
叙爵の間の隅にあるワゴンに置かれた水差しを取りながら、コーエンの母親は小声でレーアに囁いた。
「それは…。母さんは兄さんの恋に反対なの?」
「反対じゃないよ。ただ…ね。親には親の気持ちってものがあるんだよ。異国の地に嫁に出して、何かあってもすぐには駆けつけて助けてやれないって気持ちさ。その気持ちを飲みこむのは並大抵じゃないのよ」
「それは、そうだろうけど…。でも、コーエン兄さんとアメリー様は愛しあっているのよ?私達の結婚には、母さん私にエリアスの事を愛してるんでしょって、賛成してくれたじゃない?」
もうすぐ結婚するレーアの結婚相手のエリアスには、商売の為に出た旅先で野盗に襲われ客死した兄がいる。兄の跡を継いだエリアスとの結婚を大反対していた父親を説得したのが母だった。
「まぁ、心配しても仕方がない事だし…親は子の幸せを祈って見守るしかないけどね」
「母さん…」
「ふふっ。私もね。レーアと同じ理由で父さんとの結婚をおじいちゃんに反対されたのよ」
「え?」
「その時、父さんメーアブルグの警備兵だったからね。そんな危ない仕事をしている奴に娘はやれないってね」
物心ついた時から父は運送の仕事をしていたから、ずっとそうだとレーアは思っていた。
「コーエンが小さい頃に、もう若くないからと職を変えたのよ。メーアブルグの警備兵より危なくない仕事にね」
もう若くないからとあの人は笑って言ってはいたが、本当は違う事を知っていた。もし自分に何かあれば、私達が暮らしていけないから危険な警備兵を辞めたのだ。
「父さんもね。今になってあの時のおじいちゃんの気持ちがわかるって言っていたわ」
水をグラスにつぎ終わっても、しばらくグラスを見つめていた母はくいっと水を飲んで隣のワゴンに空のグラスを置いた。
--私もあの時の親の気持ちが、今になってよくわかったわ。でも、今この子やコーエンに言っても、まだわからないわね。愛する人と一緒になりたい気持ちの方が大きいんだもの。あの時の私と同じでね。
自分も夫も反対されても結婚したいという気持ちでいっぱいだった。何があっても乗り越えられるって思って…。最後には親が折れて笑顔で送り出してくれたけど、きっと心配でたまらなかっただろうと、今になって思う。今度は、私達が心配しつつも子供達を見守る番なのだろうと遠くで笑っているコーエンを見つめた。
「さぁ、コーエンのところに行きましょ。新年祭が終わったらコーエンの旅支度の準備もしてあげないといけないしね」
そう言ってレーアの頭を撫でると、レーアはパッと明るい笑顔になり母親の腕にしがみついた。
「うん。母さん大好きよ。コーエン兄さんの応援をしてあげて」
そう言って笑う娘にかつての自分を重ねて、ゆっくりとコーエンがいる方へ向かって歩き始めた。




