266 夫の顔と宰相の顔
がちゃり…
いつものように執務室の扉をあけてタクシスが入ってきたが、挨拶もなくその顔はどんよりと曇っていた。
「……疲れているようだな」
「あぁ。もうダメかもしれん」
「は?!」
疲労の色が濃いタクシスに執務室の椅子でなく、アルヘルムはソファを勧め文官に濃いめの紅茶と蜂蜜を持ってくるように頼んだ。
ふたりはいつものソファに座り、紅茶にたっぷりと蜂蜜を入れ甘い紅茶を口にする。
ぽつりぽつりと話すタクシスによれば、メラニアは本当に偶然別邸に飾っていた絵画をとりに来たらしい。本宅と別邸の執事も聞いたが間違いはないという。
タクシスは別邸の執事に、アデライーデの友人を招く為目立たぬように王宮の兵士達を配置させると伝え、別邸の警備の者たちと共に警備を厳重にし、使用人達にも誰が泊まるかは箝口令を命じていた。
猫の子一匹も通さぬ完璧な警備であったが、メラニアには通じなかったのだ。
「別邸の執事にはメラニアに気づかれぬようにと伝えなかったのか?」
「そんなあらぬ疑いをかけられるかもしれない指示は、できない。父親連れとはいえ女性を逗留させるのをメラニアに隠せなど、変な風に伝わったらどうする?どうせ新年祭では顔を合わせるし、その時にメラニアに紹介して別邸に逗留していると話す予定であったのだからな」
メラニアを溺愛するタクシスにとって、微塵でも疑われるような真似は絶対にしたくないことらしい。
「ふむ。それでダメかもしれないというのは?」
「思っていたとおり、例のスケッチブックの事でメラニアは大喜びでアメリー嬢と話していたよ。依頼もしっかりしていた…。しかも、アメリー嬢は瑠璃とクリスタルにも深く関わっていたと知って、メラニアと話が弾んでな…。別邸からの帰り道、我が家の正式な客としてしばらく逗留してもらい友人に紹介したいと…」
「………」
つまりは、タクシスが一番恐れていた二人だけの思い出がスケッチブックとなるのだ。メラニアが嬉々として友人に見せれば、あっという間に社交界に広がるのは目に見えていた。無論、タクシスは愛妻家としても知られてはいる。メラニアを溺愛しているのを隠す気は微塵もないがそれとこれとは話が別なのである。
重い空気がしばらく流れたあと、タクシスは冷めた紅茶を一気に飲み干し気持ちを切り替えるかのようにアデライーデの様子をアルヘルムに尋ねた。
「あぁ、彼女は変わりなく子供達と遊んでいたよ。そして、面白い話をしていたな」
「面白い話?」
「今回アメリー嬢が帝国からアデライーデに送った手紙が、まだ届いてないそうでね。アメリー嬢が来国したのを知らなかったらしい」
「使者を使わない手紙が遅れるのは当たり前ではないのか?」
「あぁ、そうなのだが、庶民ができるだけ安価に早く手紙や荷物を確実に届ける事はできないかと言われてな」
「難しくないか?貴族ならともかく、庶民ではどこに誰が住んでいるのか確実ではないからな」
「それなのだがな」
アルヘルムは、昨晩アデライーデから聞いた話をタクシスにし始めた。帝国とバルクで定期的に往復している炭酸水の荷車に手紙を預け帝国についたら、その手紙を帝国のアリシア商会の者が相手に届けるか商会に取りに来てもらうと言うものだ。アリシア商会の荷車には警備の者がつくし、災害でもない限りめったに遅れることはない。
「ふむ…裕福な庶民ならば手紙を使うかもしれんが、読み書きができないものが多い庶民が使うか?」
「それは代筆屋を使えばいいそうだ」
あちこちで教会が子供達に読み書きを教えてはいるが、それもほんの一握りである。ほとんどの庶民は自分に必要な単語や数字、自分の名前がかける程度で滅多にない手紙が来たときは、読み書きができる知り合いに頼んで読んでもらい返事を書いてもらうのがほとんどである。
「相手が本当に届ける相手かわかるのか?」
「あぁ、それは人相書をつけるらしい。まぁ…よく考えつくものだ」
アルヘルムがおかしげに笑うが、これはもちろん陽子さんの前世の知識である。江戸時代に発達した飛脚便と戦後海外の恋人に外国語での手紙を代筆した代筆屋、それに似顔絵描きを合わせたのだ。
「ふむ…」
アルヘルムの話を聞いてタクシスはしばらく考え込んでいた。
「それは、使えるかもしれんな」
「ん?使えるとは、何にだ」
「お前の舅様からの頼みにだよ。ズューデンとの貿易が始まるのであれば、この国に多くの帝国の商人が集まる。その商人達が帝国の本店とのやり取りに手紙を使うだろう。庶民がどれほど使うかわからんが、商人達であれば少なからず需要があるはずだ。それであれば、やれないことではないな」
「ふむ」
先程の妻に二人だけの甘やかな想い出を公表されたらどうしようかと悩む夫の顔から、タクシスは一国の宰相の顔へと変わっていた。




