261 王宮女官と貴婦人
「なんで歩くのにあんなに気を使って歩かにゃならんのだ!それにお辞儀だって相手に敬意が伝わればいいじゃないかー」
珍しくマデルが村の酒場で、髪の薄くなった幼馴染とワインをちびちびやりながらグチをこぼしていた。あれから3日と空けずに午後の数時間は離宮に出向きレナードからみっちり特訓を受けていたからだ。
「まぁまぁ、男爵様になるんだからよぉ。そりゃあ俺ら庶民とは違う作法ってもんがあるわな」
「………」
「それにグレアも、旦那に恥はかかせられんと頑張ってるんだぜ?」
「は?グレアが?」
グレアはマデルの奥さんの名前である。彼女もこの村の生まれでマデルとは幼馴染なのだ。
「あ?知らねぇのか? 叙爵される家族も王宮に招かれてお披露目の席に出るんだろ?毎日そりゃあ熱心に元女官のばーさん達から、お前とおんなじように歩き方とかお辞儀の仕方とか習ってるぜ。ばーさん達の言うことにゃ、奥さんの方が周りの目が厳しいからだとさ」
「グレアが…」
もちろん、グレアも庶民としては厳しく躾けられた方で鍛冶屋の奥さんとしては上品な方だと言われていた。しかし、やはり庶民は庶民。自分が叙爵したばかりにグレアにまでいらぬ苦労をさせているのかとマデルは少し眉をしかめてワインを口にした。
「なにしかめっ面してんだよ。お前グレアがばーさん達に作法を習ってるの知らなかったのか?」
「いや…。最近出かけることが多いなとは思ってた」
「おいおい」
マデルは仕事とレナードの特訓で頭がいっぱいで、正直奥さんの事まで頭が回らなかったのだ。そう言えば確かに叙爵の祝いの時に、ドレスがどうのとか作法がどうだとか言って村の女やばーさん達と話していたなと今更ながら思い出していた。
「グレアの事も気が付かないくらい、そのお貴族様の作法の特訓は厳しいのか?」
「厳しいってより、そうしなきゃならない意味がわからん。鍛冶なら目で見てこんな感じだとか色だとかで覚えられるが、自分の姿勢なんて見えねぇからなぁ」
そう言ってマデルは、大きなため息をついた。
「特訓中は罵倒されるとか?」
「レナード様はそんな事はしねぇ。嫌な顔一つせずに根気強く教えてくれるんだ。俺が教える方だったらとっくに匙を投げちまうな…。でも、笑顔で『もう一度』と言われるんだよ。最後は『時間ですのでここまで。だいぶ良くなりましたな。続きはまた次回』だよ…。ぶん殴られたり怒鳴られたほうがまだマシだよ。できない自分に腹立つし、レナード様に申し訳ねぇし。こんなのがいつまで続くかわかんねぇのが怖ぇよ」
「まぁ…叙爵の時まで後一月も無いんだから、それまでだよ。叙爵しちまったら後は年に一度王宮に行くだけなんだろ?」
「それも行きたくねぇ」
「おいおい、叙爵前からサボりの宣言か?できなきゃ叙爵できねぇ訳じゃなし。どっちにしても特訓もあと少しで終わりだろ」
そう言って慰めてくれた幼馴染としばらく飲んで酔えないまま家に帰ると出迎えてくれたのは、幼馴染が話していた元王宮の女官をしていたおばあさんだった。
「おや。良いところに帰ってきたじゃないかい。男爵様のおかえりだよ」
「よせやい。俺はただの鍛冶屋のマデル…」
そう言って玄関から居間に入ったら、シックな藍色のドレスに身を包んだ貴婦人の後ろ姿がマデルの目に入ってきた。たっぶりの髪を優美に結い上げ白い手袋にドレスと同じ藍色の扇を持った婦人だ。
「おかえりなさいませ。叙爵おめでとうございます」
「あ、あぁ。ありがとうございます」
婦人は、祝いの言葉と共にマデルにカーテシィをした。何故ここに貴族婦人がいるのかマデルはわからないまま、貴婦人の前まで進みとっさにレナードに習ったお辞儀をすると、周りにいたおばあさん達からやんやの喝采を浴びた。
「おやまぁ、すごいじゃないかい。どこから見ても貴族のご夫妻だよ」
「ほんとにねぇ。グレアはともかくマデルがここまでできるとは、さすがレナード様だよ。仕込みが違うねぇ」
「ほんとだよねぇ」
「え?貴族のご夫妻??」
「私よ。グレアよ。旦那様」
驚くマデルが聞いたその声は、確かにグレアの声だ。いつもは髪を1つに縛り後ろで纏めて化粧っ気もないのだが、今のグレアは見違えるように美しかった。
レナードの紹介で子爵や男爵夫人がよくドレスを仕立てる店におばあさん達と行き叙爵時のドレスを仕立ててもらったらしい。今日そのドレスが届き、せっかくだからと髪も整えてもらったのだと言う。
「どう?似合う?」
「あ、あぁ。よく似合うよ。どこから見ても貴婦人だ。綺麗だ」
恥ずかしそうにマデルに尋ねるグレアに、戸惑いながらマデルは答えた。
新男爵夫人は、襟も袖もキッチリとした地味めな色のドレスが好まれる。手袋と扇は必須アイテムらしく、おばあさん達の細かいチェックを受けた物らしい。手袋は上等な布で仕立てられており、扇には同色の飾り紐がつけられていた。
グレアが心配していた宝飾品もおばあさん達によれば、華美なものをつけても質素なものをつけても何かしら話のネタにされるので、新男爵夫人には必要ないとのことだった。
歩き方もしゃべり方もマデルが家を出る前のグレアとは違い、これは本当に女房のグレアなのかと、マデルは信じられないような目で見ていた。
「ちょっと、後でグレアを褒めてあげなさいよ。そりゃあ頑張ったんだから」
「そうそう、私達の特訓に音もあげずにこの短い間によく頑張ったんだからね」
「グレアが独り身なら、王宮に推薦してもいいくらいの出来だよ。これならすぐに女官見習いから女官になれるよ」
「そうだねぇ。女官は若いのより色々経験した人の方がいいしねぇ。男爵夫人ならそれなりに…」
グレアの出来を褒めつつ、話が変な方向に流れているおばあさん達に慌ててマデルは止めに入った。
「いや!グレアは俺の女房で王宮女官なんかにはさせない!グレアはずっと俺のそばにいるんだ!」
マデルの声におばあさん達は一瞬しんとなり、続いて満面の笑みがこぼれ落ちた。
「おやまぁ、お邪魔なようだね」
「そうだねぇ。帰ろうか」
「そうねぇ。じゃ、グレア。また明日ね」
「え?ええ、ありがとうございました。また明日」
グレアは慌てておばあさん達を玄関まで送り、居間でぼーっと立っていたマデルのところまで戻ってきた。
「すまん、つい大きな声が出た」
「しょうがない人だねぇ。私は頼まれたって女官なんてごめんだよ。きれいな格好もたまにはいいけど、私は気楽な方がいいからね。ドレスって優雅そうに見えたけど、コルセットがキツくてさ」
「俺の為にすまん」
きっとグレアは着慣れないドレスを着ることから始まって、自分以上におばあさん達から鍛えられたのかと思うとマデルの口から出たのは、詫びの言葉だった。
「まぁ…私が旦那様に恥をかかせる訳にはいかないからね。それにあんたの格好いいところも見れるんなら、王宮に行くかいがあるってもんだよ」
「格好いいところ?」
「あぁ、さっきピシッと背筋を伸ばして歩いてお辞儀をしたでしょ?すごく格好良かったよ。今日はいつもの格好だけど一張羅着たマデルを見るのが楽しみだなと思ってさ」
「楽しみ…。俺…。頑張るよ」
「? 頑張りな。なんにつけ努力するって事はいい事だよ。私も貴婦人を頑張るからね」
「おう」
グレアは職人の妻らしく努力を尊ぶ人である。
マデルにハグをされつつ頑張る宣言をされて、訳もわからないままマデルの背中をぽんぽんとたたき、グレアはドレスを汚さないようにきれいにクローゼットにしまった。
マデルはこの日、レナードの特訓を受ける彼なりの理由を見つけたのだ。
少し長くなりましたが、どうしても1話に収めたく…。




