260 質素な杖と特訓
「ほぅ…」
コーエンが杖をつきゆっくりと歩く姿を見てレナードから、一言が漏れた。
「長さは、こちらでよろしいようでございますな。あとは…ハンドル(持ち手)の形でございますが、お好みがございますか?」
「あ…いえ…。この杖が良いかと」
職人に流されるままどんどんと話が進んでいくが、先程の礼服といいこの杖といい正妃の住まう離宮に務めるレナードのおめがねに叶う職人が作るのだ。そろばん職人になり少し懐が潤っているとはいえ、コーエンは値段をきくのも怖かった。なぜなら、ここで好みを言えば『貴族仕様の特注品』となるのは同じ職人としてコーエンにはよくわかっていたからだ。
コーエンの返事を聞くと、職人は笑顔で頭を振った。
「こちらは杖の長さを試す…言わば物差しのようなもので、私の商売道具でございます。申し訳ございませんが、お売りするわけにはまいりません」
「あ…それは失礼をしました。それでは…なるべく質素なものをお願いできますでしょうか。私にも払えるくらいのもので…」
「質素なものでございますか?」
「ええ、お願いします」
コーエンの願いに杖職人は一瞬きょとんとし、レナードに目を向けた。彼はレナードから、杖はアデライーデからコーエンへの叙爵の祝いの品と依頼されていたからだ。
「こほん…。コーエン殿のご希望に沿うように…」
小さく咳払いをして伏し目がちにレナードがそう言うと、職人はこくりと頷きコーエンに笑顔を向けた。
「承知いたしました。叙爵された方に相応しく、それでいて華美でない杖をお作りいたします。コーエン様はまだお若く握力もお強いですのでハンドルはシンプルなポンメル(丸い形状)がよろしいかと…」
「はい、お任せいたします」
「では、こちらは杖が出来るまでお使いになってくださいますか?初めて杖をお使いになるのです。慣れが必要でございますよ」
職人はコーエンに試し杖をそのまま使うようにと、置いて下がって行った。
職人が下がると、レナードは皆に叙爵の儀の流れを簡単に説明し始めた。前日に王宮に呼ばれ叙爵される小謁見室で1度リハーサルが行われる事を告げ、作法は難しくはない事、そして一人ひとりに介添え役がつく事を説明すると1番ほっとした顔をしたのは、マデルであった。
「ですので、私がお教えするのは歩き方と姿勢、そしてお辞儀の仕方でございます。どれも慣れでございますので…。まずは私が1度やってお見せいたしましょう」
そう言って客間の扉から入室し、王に見立てた従僕の前で礼をとり右手を胸に当て「謹んでお受けいたします」と口上した。
「そ…それだけでよろしいのですか?」
「ええ、庶民からの叙爵ですので1番簡単なものとなります」
「だったら…、わしも頑張ればなんとかできるかも」
「そうですね。では皆さん、始めましょうか」
マデルはもっと難しい作法かと思っていたら、ただ歩いてお辞儀をするだけとホッとしたのもつかの間、それがいかに甘い希望だったのかをすぐに思い知った。
歩く姿勢、速さ、歩調のとり方、お辞儀の角度。全てにダメ出しを食らったのだ。
ハンスは昔とった杵柄で難なく及第点をもらったが、マニーは姿勢は褒めてもらえたが、歩く速さとお辞儀の角度、発声を注意された。コーエンは慣れぬ杖の取り扱いと歩き方、発声である。
「……結構、大変そうね」
「まぁ…、初めてのことですから最初は大変かと思いますが、これから男爵と成られたら必要なことですし…」
扉を薄くあけてアデライーデとマリアは、こっそりみなの練習風景を隣の控えの間から覗いていた。
陽子さんも気がついていなかったのだが、現代では幼稚園から学校に通う間、なにかにつけ入場や行進の練習をする機会がある。社会人となれば職種によってはお辞儀の仕方等も新人研修で教えられ自然と身についていることが多いが、この世界では、学校制度は整っておらず庶民は軍に入隊するしかそれらを教えられる機会はほぼ無い。
なので、それらに触れたことのないこの世界の庶民にとって、入場、行進、お辞儀はかなりハードルが高いのだ。
「大丈夫かしら…。マデル、今にも倒れそうだけど」
レナードは優しい口調だが、マデルが1番ダメ出しをされていて何度もレナードと一緒に並んで歩いて、歩幅から歩調まで細かく指導されていた。
「かなり、頑張っていらっしゃいますね」
「後で、なにか…コーラか炭酸水の飲み物を持っていってあげて」
「はい、厨房にお願いしてきますわ」
今自分に練習する姿を見られるよりは、レナードから及第点をもらいちゃんと出来るようになった姿を褒めてあげたほうが良いだろうと思い、アデライーデは、そっと控えの間の扉を閉めた。




