250 伯爵と離宮
「ご無沙汰致しておりました。ご健勝そうで何よりでございます。アデライーデ様」
翌日、ヨハンは離宮を訪れアデライーデににこやかに挨拶をした。
昨日の内にナッサウが離宮に出向き、ヨハンの来訪を告げ王宮にて謁見をとの言葉に、アデライーデはできる事なら離宮に彼を招きたいと告げたからだ。
「こちらへ…でございますか?」
「ええ、普段の生活を見ていただいた方が、陛下たちも安心されると思うわ」
「……承知いたしました。アルヘルム様の許可が下りましたら、そのように手配いたします」
ナッサウとしては、王宮にて謁見をしてもらえる方が安心だった。ヨハンからの、皇后陛下から皇女アデライーデが健やかな様子を直に見てくるように拝命したとの言葉に、離宮で健やかすぎるほどのびのびと…些か正妃としては規格外な過ごされ方をされているのを、皇后陛下はどのように感じられるか不安だったからだ。
できる事なら王宮で謁見をしていただければ、自分の目の届く範囲で取り繕えるかと思っていたが、予想通り離宮でとのご希望であらせられた。頼みの綱のアルヘルム様も良いのではないか?と、あっさりと許可を出されてしまったので自分にはもう打つ手がない。
残る頼り先は、レナードだけだがレナードも「アデライーデ様はアデライーデ様でございますから…」と要領を得ない返事であった。心配はあるが任せるしかない。
ヨハン殿に明日離宮での謁見になったと告げると「それは楽しみな事でございます」とほほえみ返されたがその笑顔がナッサウには怖かった。気を許してしまいがちな親しみやすい笑顔に…。
ナッサウの心配をよそに、本日ヨハンは離宮でアデライーデに挨拶を奏上した。
「お久しぶりだわ。結婚のとき以来ね。陛下達はお変わりなく?」
「はい、両陛下もお変わりなく、お元気にございます」
そんな会話で始まった謁見はすぐに終了して、今は離宮の居間で二人でお茶を飲んでいた。アデライーデは結婚してからいかに大事に扱われ自由を満喫しているかを楽しそうにヨハンに話し、ヨハンはうんうんと頷きながらアデライーデの話を聞いていた。
話が弾み2杯目のお茶が空になりかけたときに、アデライーデが急にもぞもぞしだしたのをヨハンは何かあるのかとティーカップ越しに見つめていた。するとアデライーデは急に炭酸水が飲みたいとマリアにねだり、マリアが席を外したのを確かめてから、ヨハンに向き直った。
「ヨハンに聞きたい事があるのだけれど…。いいかしら」
「? 何でございましょうか。私にお答えできることでございましたら、何なりと」
「貴族の…男爵の令嬢が平民と結婚する事は、帝国では珍しい事かしら」
「……。そうでございますね。子爵以下の貴族の令嬢が裕福な商人らに嫁がれるのは、そう珍しい話ではございません」
「嫁ぎ先が商人でない場合もあるの?」
「戦功ある騎士のもとへ嫁ぐ事もございます」
「あの…職人とご結婚された方はいらっしゃるのかしら」
「職人と…でございますか?」
「ええ」
ヨハンは聞きたい事があると言われ何事かと身構えたが、真剣な表情で貴族令嬢の結婚事情を尋ねるアデライーデに思わず笑みがこぼれた。アメリー嬢の事は、影からの報告で耳にしていたからである。
「気になる恋人方がいらっしゃるので?」
「ええ…」
「もちろん、過去にそういった事例はございますよ」
「本当に?!」
「帝国では国に多大な貢献をした商人や職人に1代限りですが『名誉男爵』の称号を与えております。その称号が与えられれば新年祭に参加する義務と、宰相に面会を申し込む権利が与えられます。確かバルク国でも同じような爵位の授与はあったと存じます」
−−名誉男爵?! それって人間国宝的なものかしら?
陽子さんは現代に生まれ育ったので爵位と言うものに全く馴染みがなかった。それでも男爵令嬢であるアメリーと平民のコーエンの結婚に爵位と言う壁があるのは容易に想像できる。できればアメリーとコーエンの結婚になにか手助けになる事ができればと考えていた。マリアに聞いたら同じ様に裕福な商人との結婚は聞いた事があるが、職人の話は聞いた事がないとの返事だった。
「ただ…名誉男爵になる職人は壮年や初老の者が多く、私が知る限りすでに結婚している者が多かったですね。独身の名誉男爵の職人に嫁ぐのは寡婦となられ実家に戻られた方や未婚で長く過ごされた親族のご令嬢が養女となり嫁がれる事があったと…記憶しています」
「そう…でも、帝国では事例があるのね…。その…そういう結婚に親御さんの心象はどうなのかしら…。やっぱり進んではしたくないものかしら」
「貴族の結婚は、家門同士の契約ですので双方に利益がある事が前提です。名誉男爵の場合はその職人を手放さない為に商会を持つ貴族との間に結ばれるので、反対はないかと…」
「そう…」
アメリーの家は代々宮廷画家を輩出している家と聞いた。指物師で今は算盤職人のコーエンでは、難しいかもと空になりかけたティーカップを見つめていると、マリアが炭酸水をティーワゴンに載せて戻ってきた。
差し替えられた炭酸水に、ヨハンは同じ炭酸水でもバルクの炭酸水はまろやかで帝国の炭酸水とは違うものですねと口にした。
「そういえば、アデライーデ様のご結婚の肖像画を描いたノイラート卿は先日宮廷画家の職を辞したいと申し入れがあったとお聞きしています」
「え?! アメリーのお父様が?」
「ええ…。年齢を理由にされていました。まだまだ画家としてはお若いと思うのですが」
突然のヨハンの言葉に、アデライーデはマリアと目を見合わせて驚きを隠せなかった。




