22 小謁見の間にて
小謁見の間の扉が近衛兵の手によって、ゆっくりと開いた。
小謁見の間と言う名であるがかなり大きな空間だ。
天井には豪華なシャンデリアが下がり、庭に面した大きな窓から入る光を含み華やかに反射させている。
一段高く高座が設えられ、そこに玉座が据えられていた。
庭とは反対側の壁際には陛下の侍従たち。玉座の少し離れたところに近衛兵が2人ずつ配置されていた。
他の貴族や皇后の姿はなかった。
グランドールにエスコートされ、玉座の前へと進む。
歩みを止めたグランドールの腕から手を離すと、グランドールはアデライーデの右斜め一歩後ろに下がる。マリアは侍従の末席に静かに着いた。
すぐに小さなベルの音がした。
近衛騎兵が「皇帝陛下の御成りでございます」と触れを出すと高座の後ろのドアが開き陛下が入ってきた。
アデライーデは教えられたとおり、引いた脚の膝がつくほどに深く淑女の礼をとり陛下の声がかかるまでそのままの姿勢で待つ。
(若くないとできないわ…でもアデライーデの身体は覚えているのね)
玉座に座るかと思いきや、意外に高座の前に陛下は立った。
「面をあげよ」
陛下の声がかかると、アデライーデは深い姿勢のまま口上を述べる。
「陛下にはご機嫌麗しくお慶び申し上げます。
アデライーデ、本日皇帝陛下にバルク国王、アルヘルム・バルク陛下のもとへ嫁ぐご挨拶に参りました。本日までの陛下の御恩に報いる為にも、嫁いだ後もフローリアの名に恥じぬように過ごす所存にございます」
そう、奏上しゆっくりと顔を上げ陛下の胸のあたりに目線を上げ膝をゆっくりともとに戻す。
同時に目線を陛下に向け陛下に微笑む。
優雅で皇女らしい完璧な挨拶をアデライーデはやり遂げた。
陛下は、アデライーデと同じ髪と瞳を持つ。しかし少し艶やかさはくすみ瞳は長年の激務のせいなのか翳った濃い色に思えた。
その瞳がアデライーデの視線と交わると大きく見開かれた。
アデライーデの微笑みを瞳に写すと、驚きと動揺。喜びと後悔、そして悔恨の色をその瞳に写し、口は何かを呟くように薄くあけられたが、一瞬のうちに色はかき消され音にならない言葉は飲み込まれた。
グランドールが口上を添える。
「第7皇女、アデライーデ・フローリア様。皇帝陛下への輿入れのご挨拶にございます」
グランドールは胸に手を当てお辞儀をする。
「うむ、この婚儀をめでたく思う。アデライーデよ。バルク国に嫁いだ後も息災であれ」
陛下が、決められた祝いの言葉を口にするとアデライーデは先程と同じような深さに膝を折り返礼をする。
これで…輿入れの挨拶は終了した。
マルガレーテに教えられた手順では、陛下の祝いの言葉を受け一拍した後にグランドールが一歩前に進みアデライーデをエスコートして退出すれば、陛下への挨拶は終わるはずだった。
しかし、グランドールはその場にとどまっている。
(私…流れを覚え間違えた?)
陽子さんが戸惑っていると侍従たちが一人を残し静かに退出する。
エスコートなく動くわけにはいかない陽子さんはその場にとどまるしかない。
やがて、侍従たちが退出し終わった頃
グランドールが一歩前に進みアデライーデに手を差し出す。
差し出された手に右手を添えると、グランドールはアデライーデを陛下の前までエスコートする。
グランドールは、陛下の前までアデライーデをエスコートすると手を離し少し離れたところまで下がっていった。
「アデライーデ… 久しいな」
「はい…」
陛下は先程とは違い、おずおずと声をかける。
「王宮での暮らしに不足はなかったか?」
「はい」
「心安く過ごしておるか?」
「はい」
陛下はアデライーデを見つめ、アデライーデは陛下から目を離せなかった。
陛下の目に悔恨の色が強く滲む。
「余を…… 私を恨んでくれ」
「え……」
エルンストは、アデライーデにそう願った。
「皇帝とは名ばかり…即位してから国民に平和も与えられぬ。ベアトリーチェと…そなたの母と交わした皇帝として必ず平和を帝国に取り戻すと言う約束は、10年経った今も果たされておらぬ…
ベアトリーチェが病に伏せていた時も側にも居れず、身罷った時も一人で逝かせ…お前のそばにも居てやれなかった…
何1つ…何1つ皇帝としても…伴侶としても…父としても何ひとつ満足にできぬ!与えられるばかりで、努めには何ひとつ応えられぬのだ…」
絞り出すような声でエルンストはアデライーデに告白する。
エルンストの両の手は固く握りしめられ震えていた。
目の前に娘がいる…最愛のベアトリーチェに生き写しのアデライーデ。
微笑む笑顔も出会った頃のベアトリーチェにそっくりな娘。
皇后やグランドールに止められても、どうしてもベアトリーチェが欲しいと抑えられず願って自分だけのものにした。
ベアトリーチェが妃として自分の下にきてくれた時は、この上ない幸せを感じた。夢中になり幸せを日常に感じるようになった頃に時々どうしようもない不安に襲われるようになった。
自分のもとに上がらなければ、伯爵令嬢として相応な婚姻をしベアトリーチェであれば相手といたわり合える夫婦となれたかもしれない。
皇帝に乞われれば家としても断ることができぬと自分のもとに来たのかもしれない。
もしかしたら、心を押し殺し家の為と他の妃と同様に『皇帝』に仕えているのかもしれない。
一緒に過ごし幸せを感じていてもベアトリーチェにどう思われているか不安だった。
自分が幸せと感じるのと同じくらい幸せと感じてくれているのだろうか。自分はベアトリーチェを幸せにしているのだろうか…
その笑顔は本心なのか。
聞くのが怖かった。
ベアトリーチェなら幸せと感じてくれているはず…
いや、もしかしたら…
聞いてその笑顔に少しでも曇りを感じてしまったら、この幸せはなくなってしまう…
ある日、思わず言葉にしてしまった。
「君は幸せなのか?」
ベアトリーチェは、驚いたような顔をした。
そして、はにかむように笑うとするりとエルンストの胸に入る。
「幸せですわ」とつぶやき微笑んでエルンストを見上げる。
「恐れ多いのですが…陛下が陛下でなくとも、私。きっと陛下に恋をしましたわ」
エルンストは、ただのエルンストとして愛するベアトリーチェと真実の愛を分かち合っていると、この日知った。
アデライーデが生まれ、二人から三人になった幸せを離宮の中だけで味わった。
隣国との戦争の始まりで、二人の会える時は目に見えて減っていった。
ベアトリーチェは社交に滅多に参加しなかったが、それでも帝国の窮状はベアトリーチェの耳に入っていたようだ。何ヶ月も会えなくとも訪れればいつもの様に迎えてくれ笑顔で送ってくれた。
義兄殿と義父殿が続けて身罷られた時、泣くベアトリーチェに約束したのだ。皇帝として帝国に平和を取り戻すと。
自分が不甲斐ないばかりに帝国は窮状におちいってしまった。義兄殿と義父殿の死を無駄にはしない。しばらくここには来れないかもしれないが待っていてほしいと言うとベアトリーチェは「ええ、お待ちしております」と、笑ってくれた。
そして「いつも陛下と共におりますわ」と帝国の紋章を守るように蔦が取り囲む刺繍が入ったハンカチを差し出した。
昼間アデライーデが「お父様にあげる!アデライーデが刺繍したのよ」とプレゼントしてくれた葉の刺繍のハンカチを重ねてくれた。
「これで家族はいつも一緒ですわ」
渡された2枚を重ね左胸の内ポケットに入れ、必ず帝国に平和を取り戻すと約束し別れたあの日。
1日でも早くと寝る間も惜しんで奔走したが気がつけば10年の年月が流れ、やっと国外との戦争の火種が落ち着きもう少しという時に気がつけばベアトリーチェは一人で逝ってしまっていた。
道化のようだ…
1番大事な人を失い娘も蔑ろにし、自分は何をしていたのだ。
そう思うと、アデライーデに会いにも行けなかった。
こんな父親には会いたくもないだろう…
アデライーデにしてみれば、母親と自分を放置し続けた覚えてもいない父親だ。
憎まれてても仕方がない。
そして、この輿入れだ。
アデライーデはきっと、父親を憎み恨むだろう。だがそれでいいのだ。
これは罰なのだ。
二人を不幸にした自分への罰。
そう覚悟を決めこの間に入り、挨拶をしたアデライーデを見て驚いた。
ベアトリーチェ…
10年ぶりに会った娘はベアトリーチェに生き写しだった…
幼い時もアデライーデは母親似ではあったが、ここまで似ているとは…
思わず駆け寄りそうになるのを必死で抑え
決められた言葉を口にするだけで精一杯だった。
娘は自分に微笑みかける。
ベアトリーチェにそっくりの顔で…
グランドールの計らいで
手を伸ばせば触れられるところまで娘は来た。
睨みつけられ拒絶されるのを覚悟していた。
それなのに何を話せばいいのか…
微笑む娘に言葉が出てこず、ありきたりなことしか口にできない。
娘は、微笑んでくれる。
問いに応えてくれる。
臣下のように…
決してあの頃のようにお父様とは呼ばず…
そうだ…自分は二人に許されないことをしたのだ。
罰せられるべき自分は…
自分は…アデライーデに許されるべきではないのだ。
そう思うと、口に出たのは
「余を…… 私を恨んでくれ」だった…
そして、エルンストは胸に溜まっていた悔恨の言葉を口にする。
この10年…いや皇帝になったその日から思っていた。
そしてベアトリーチェを亡くしたと知った日から、今日この日まで何度も何度も己を罵り続けた言葉を口にした。
(この人は、きっと真面目で不器用な人なのね)
「陛下…いえ。お父様」
アデライーデはエルンストに声をかける。
エルンストは、弾かれるようにアデライーデを見た。
「私はおふたりの間の事はわかりませんが、きっと想いあっておられたと思います。あまり会えずとも深い絆があって… それにお母様も決して不幸では無かったと思います。そう想いあえる相手と出会える事自体奇跡のようなものだと思います」
そう…2人の間のことは2人にしかわからない。
夫婦とはそういうものだ。
簡単にベアトリーチェが幸せだったとは言えないが、少なくとも不幸ではなかったはずだ。アデライーデが残した刺繍を見てそう思うのだから。
エルンストはカラカラになった口を開き
「そうなのか… ベアトリーチェは……」ベアトリーチェの名を絞り出す。
目に浮かぶのは、ベアトリーチェの姿ばかりだった…
「私は…お前には何もしてやれなかった。物心つく頃から今までずっと…」
「………では、お父様」
そう言うとアデライーデは一歩踏み出し、はにかむように笑うとするりとエルンストの胸に飛び込んだ。
「抱きしめてください、お父様。お母様の分も10年分」
そう言うと微笑んでエルンストを見上げる。
エルンストは動けなかった。
あの日のベアトリーチェと、この腕の中のアデライーデが重なる。
抱きしめられるのか…
一度失ったものを、この手に取り戻せるのか…
許されるのだろうか…
手が鉛のように重く、ノロノロとしか動かない。
そんなエルンストに構わず、アデライーデはエルンストを抱きしめる。
エルンストはやっと、アデライーデを抱きしめた。
小さかったアデライーデ。抱き上げるときゃっきゃと喜んでいた。
腕にすっぽり入っていたのに。
いつの間にか、こんなに大きくなっていたなんて…
失われていた10年のなんと長かった事か…
エルンストは嗚咽を漏らし、アデライーデを強く強く抱きしめる。
失った10年を取り戻すかのように 強く。
(これで良かったのよね。アデライーデ…)
2人を見守ったのは、宰相とマリアと侍従。そして護衛の騎士達だけだった。




